能面くらげ

 僕は海が怖い。
 何故怖いのか。 それは、幼い頃にじいさんから聞かされた海での恐怖話に起因している。
 これはまだじいさんが10歳かそこらの話だって言うから、もう60年前くらいの話だ。

 今でこそ都心で暮らしている小洒落たじいさん……(以下、武雄)だが、漁師の父親のもと沿岸部にある村で生まれ、幼い頃は海育ちのわんぱく坊主だったそうだ。
 ある夏の日、武雄はいつもの友人達と、いつものように海に出ていた。
 その日は波がとても穏やかで、澄み渡った水面がとても綺麗だったと、じいさんは言う。
 しばらく浅瀬で遊んでいたのだが、今日は波も穏やかだし、もうちょい沖に出てみようや! と、健二が言った。
  健二は負けん気が強いガキ大将だ。 その日の数日前に他の子供が溺れかけたこともあり、親達からキツく「沖には出るな」と言われていたのだが、ガキ大将の提案に首を振れば、馬鹿にされたりいじめられたりすることが目に見えていたので、強く拒否するものはいなかった。
 武雄を含めた泳ぎ自慢の男子たちは、足がつかないところまでいくと、ヨーイドンで岸まで泳いで競争をする。
 それを幾度か繰り返しているうちに、友人の1人が辺りをキョロキョロと不安そうに見渡していることに気がついた。
 どうしたのかと聞くと、「何かが足に絡み付いてきた」と不安気な表情を浮かべて答えた。
 それを聞いていた健二は、その友人を小馬鹿にし、「そんなに怖いなら浅瀬で遊んでろよ!」と一蹴した。
 武雄は肩を落とす友人に「海藻でも絡まったんだろう。でも無理せず岸に戻るのもいいと思う」と伝えて、沖にいる健二達の元まで泳いで行った。
 しばらくそうして遊んでいるうちに、近くにいた光太郎が「イテェッ!」と言ったかと思うと、少し間を置いて「ぎゃあぁあ!!!」と絶叫し、暴れ始めた。
 武雄は慌てて、どうした! 落ち着け!! と声をかけるが、光太郎のパニックは止まらない。
  パニックになっている人間に近づくと、自分まで危険に晒される。
 それを知っていた武雄は、少し距離をとってからとにかく仲間たちを呼び寄せた。
 そうして集まってきた仲間たちと一緒に、光太郎を取り押さえることに成功。
 岸まで連れて行く最中も、光太郎は「取ってくれ! 取ってくれぇ!」と泣き叫んだ。
 岸に光太郎を運び上げると、どこからともなく「ぎゃあ!」とか「ひい!」などと言う声が飛び交った。
 光太郎を抱える役だった武雄は、切れる息を整えて光太郎を観察する。
 武雄がそれに気がつくと同時に、同じく光太郎に肩を貸していた健二が「なんだこれ……」と、呟いた。
 光太郎の脚に、くらげが張り付いている。
 異様なのはその姿。
 能面のような……いや、能面そのものと言っていいだろう。
 のっぺりとした白い顔に、細い目と真っ赤な唇。
 くらげの頭頂部全体がまるで能面の「女面」なのだ。
 その長い黒髪が、触手のように光太郎の脚に絡みついていた。
「取って……取って……」
 光太郎が涙ながらに力なく言う。
 武雄と健二、他の仲間たちが呆気に取られていると 「おほほほほほ」 と、突然能面が嗤い声を発し始めた。
 赤い唇が吊り上がり、真っ暗な口内が見える。
「おほほほほ、おほほ、おほほ、ほほほほほほほほほ」
 そのあまりにも不気味な甲高い声に、絶叫しながら逃げる仲間たち。
 その場から動けなくなった武雄。 そんな中、健二がすっくと立ち上がり、何を思ったのか能面を光太郎の脚からひっぺがすと、海に向かって蹴り飛ばした。
 蹴りとばされる瞬間、「ぎっ」というような小さい呻き声が聞こえた気がする。
 能面はしばらく海の水面に漂っていたが、そのうちに潜ったのか、すっと消えた。
 それを見送った武雄は、「痛いよぉ」という光太郎の声にはっと我に帰り、光太郎の脚を見る。
 脚には、黒く艶のある長い髪の毛が何十本も刺さっていた。
 どうしたら良いものかと逡巡したが、意を決してそれらを抜いていく。
 そこに健二が混ざり、2人で必死になって髪の毛を抜いていると、仲間達が呼んだらしい漁師のおじさんが駆けつけてくれた。
 おじさんは開口一番に、「沖に出るなと言うとったろうが! バカタレが!」と怒鳴り、光太郎を肩に担ぐと、「オメーも来い!」と健二の腕を引っ張った。
 髪を抜くのに必死で気が付かなかったが、よく見ると健二の右手は血塗れになっていた。
 おじさんは、「村医者んとこ行くから、光太郎と健二のお袋さん呼んどけ!」と三輪トラックの荷台に2人を載せて行ってしまった。
 残された武雄たちは、手分けして2人の親に伝えに行き、その足で村医者の元を訪ねた。
 どうやら2人とも大事には至らなかったようで、健二は手当してから帰宅、光太郎は1日病院で様子を見るために入院するが、意識もはっきりしており、命に別状はないだろうということだった。
 看護士は武雄たちにそれだけ聞かせると、もう遅いから帰りなさいと、子供たちを解散させた。
 家に帰った武雄は、既に1日の成り行きを知らされていた父親に拳骨をもらい、言いつけを守らなかったことをこっぴどく叱られた。
 小一時間説教を喰らいひと段落した後、漁師である父親にあのおかしなくらげのことを尋ねた。
 話すことを渋っていた父親が、また同じことを起こさないためにと話してくれた話がこうだ。

 あのくらげのことは、漁師内では「能面くらげ」と呼んでいて、時折網にかかったり、海面に顔を出しているのを見かけることがあったのだという。
 ある時などは、熱血漢の若い漁師が、人が溺れていると勘違いして海に飛び込み、あわや海底に引き込まれそうなるということも起きたそうだ。
 その漁師の脚にも髪の毛が大量に刺さっており、治療が終わった後もミミズ腫れが残ってしまったという。
 そのあまりにもおかしな風体と、海に引きずり込もうとする習性から、普通の生き物ではなく海の化物のひとつだろうと、漁師たちは結論付けた。
 それがここ数日、なぜか海岸から近い沖で目撃されており、危険を感じた村の大人たちが「子供が溺れかけた」という偽の情報を流し、子供たちを近づけさせないようにしていたというのだ。
 武雄は、能面くらげが嗤い声を上げた……ということを父親に伝えたが、父親からは「そんなのは聞いたこともない」と言われてしまった。
 その後、健二から右手を怪我した経緯を聞くと、健二は瞳に少しの恐怖を滲ませながら「能面を剥がしたときに、思いっきり噛まれたんだ」と答えた。
 肉がえぐれるほどの咬み傷だったようで、完治まではしばらくかかるということだった。
  武雄はそれまで、ガキ大将で偉そうにしている健二をあまりよく思っていなかったそうだが、この一件で、怪我をしてまでも能面くらげをやっつけた健二は、ただのガキ大将というだけではなく、仲間思いで勇気のある奴だ……と、考えを改めたという。

 以上が、太平洋側のとある漁村でのお話だ。
 今でもその能面は海を漂っているのだろうか。 もし見かけたとしても、決して近づかないことをお勧めする。

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