幽霊哀歌~絹鳥編~

 この話は、タブーに触れます。
 途中、ぼかして伝えるつもりですが、表現せざるを得ない所があります。それを踏まえたうえで、ご覧ください。

 これは、私の祖父と祖父の弟(私達家族は、「おじさま」と呼んでいましたので、以下、そう書かせていただきます)が生きている時に、聞いた話です。
 ここ最近の、グルメ漫画で、戦時中の食事を書いた物語を読んでいて、思い出した話です。
 祖父は、私が小学生の頃になくなってますので、かなり前の話です。
 祖父とおじさまは、兄弟であるにも関わらず、滅多に会うという事がありませんでした。
 父曰く、「家に親せき付き合いが殆どないのは、仕事上のいざこざがあってな。あんまり聞いてくれるな」と言って教えてはくれませんでした。
 この話は、本筋とは多分、関係ありませんので、忘れてください。
 そんな二人が顔を合わせた少ない機会の時なんですが、こんな会話をしていました。
「なぁ、あの絹鳥の肉ってのは、なんだったんだ?」 です。
 数少ない話の中で、祖父は、車や砲なんかの整備をするいわゆる整備兵として、戦地に赴き、おじさまは、飯炊き兵として、戦地に赴いていたというのは、聞いたことがありました。
 断片的な話ですが、あの食糧難の戦場で、それこそ、虫だろうが、木の根だろうが、茸だろうが、なんだろうが、おおよそ、食べられそうなものは何でも食べた、と言っていました。
 戦争末期の物資も人も不足している状況で、最前線では、上官への食料も底を付きかけている状況。
 末端の兵士にまで食料が回るはずもなく、ましてや、捕虜に対する食事なんて、ない方が珍しくなかったといってました。
 捕虜に未知の食材を無理矢理食べさせ、毒の有無も確認したという話も聞きました。
 祖父も戦争の話をするときは、いつも、戦闘、しごき、食料の話が出てきていましたので、今では考えられないような状態だったと思います。
 ですが、おじさまがいた地域では、食料が不足はしていたそうですが、そこまで深刻ではなく、捕虜に対しても、満足ではないが、少なくとも餓死する。傷病人が見捨てられるといった事が少なかったそうなのです。
 で、祖父が何人かの仲間に聞いたところ、「絹鳥という鳥が沢山いたから、それをとって食料に当てていた」と言っていたらしいです。
 しかし、祖父が調べた所、比較的近い部隊に居た人に聞いても、絹鳥なんて知らないし、食糧難は酷かったという話が出てきたそうです。
 そういう鳥がいたのかもと思ったのですが、調べてもそれらしい鳥は見つからなかったとも言ってました。
 当時のおじさまは、飯炊き兵でしたので、その食材を扱っていたはずだと祖父は考えていたのですが、その話をしても、「そういう鳥だよ。きっと、渡り鳥で、たまたま、あの地に沢山いたんだよ」と、その繰り返しでした。
「そんなことを知っても、意味ないよ。あの時は、みんな、生きるのに必死だったんだ」とも。
 ですが、祖父は、「あの地に行った奴らの中に戦争が終わって、数年、おかしな病気で入院したってのも聞いたんだ。祟りだっていう奴もいたけど、何かの病気だったのかもしれない。偶然かもしれないが、余りにもおかしいって、仲間内で話が出たんだ。お前以外の飯炊き兵にも聞いたが、全員、同じ反応が返ってきて…。あの当時を知ってるのはもう、お前だけなんだ。お互い、あの戦争を生きて帰ってきて、生い先も短いんだ。教えてくれ」といってました。
 しかし、おじさまの答えは、「渡り鳥だよ。卵も食べたんだ。飯炊き兵としては、みんなに美味いってわけじゃないが、飯を食わせることが出来て、うれしかったんだ」といって、それ以降、何を言われても答えませんでした。

 私は、この話を、祖父の隣で聞いていました。
 何の集まりかは忘れてしまいましたが、法要、だったのではないかと思います。
 それから少し後、祖父が亡くなりました。
 祖父の葬儀は当時では珍しい、葬儀会館を使ったものでした。
 祖父は生前、色んな所に繋がりがあったようで、葬儀中はひっきりなしに弔問客が焼香に来ておりました。
 まめな人で、つながりのある人には、毎年、年賀状を送り、何かとあちこちに顔を出していた人でしたので、恐らく、数百人レベルだったのではないかと思います。
 その中には、やはり、当時の戦友もいたらしく、最後の出棺の時、敬礼で見送る人もいました。 そんな葬儀の最中、夜の葬儀会館におじさまが現れました。
 ろうそくの番という事で、私と父が残っており、手を合わせ、冥福を祈るおじさまと一緒に、思い出話をしていました。
 そして、最後に棺に眠る祖父の安らかな顔に向かい、おじさまが、一言、こういいました。 「絹鳥になれたな」 と…。
 それ以降に絹鳥の名を口に出す事はなくなり、私も、何が何やらといった感じでしたが、改めて思いだした時に、背筋に寒い物が走りました。
 まさに、戦場は、この世の地獄だったのかもしれません。
 もし、どこかでこの絹鳥の話を聞いても、深く聞かない方がいいと思います。
 その人は、私のおじさまと同じ戦場にいて、同じものを食べていた、そういう事なのですから。戦争は起こしてはいけない。
 起こしてもいい事はないというのを本当に強く思い出した出来事でした。

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