自分

 これは、友人のK子さんから聞いた話で、コロナ禍以前の話である。

 K子さんの家の近所に住む奥さんが、遠く離れた沿岸の海で、遺体で発見された。自殺だったとのこと。
 私達が住んでいる所は、内陸と呼ばれる地域である。
 ここから沿岸に行くには、車だと一時間三十分位だが、電車だと乗り継ぎもあって、三時間以上かかってしまう。
 ご遺体が一月の真冬の冷たい海で、流されずに発見されたのは、はたして本人の希望通りであったのかどうかは、不明であるとのこと。
 詳しく伺うと、それは本当に悲しい状況であった。
 その奥さんは、享年五十才前後位で、夫と成人した子供三人、更に夫の両親の七人家族だった。
 その義両親が、近所でも評判の癖の強い方々のようで、嫁いびりが凄かったとのこと。
 金銭的な面においても、子供三人にかかる費用を除けば、食費として残る分もわずかで、大変苦労されたそうだ。
 それで、家の前の畑で、毎日毎日、せっせと農作業に励み、自家栽培によって、何とか七人分の食事を用意していたのだという。
 トマト、ナス、きゅうりなどの家庭菜園のようなものや、じゃがいも、キャベツ、白菜などの本格的なものもあった。
 K子さんが、その家の前を通る時、いつも畑の中にその奥さんがいて、会話こそ無かったが、その一生懸命な姿が印象的だったそうだ。
 しかし、今となっては、 「あれは、一生懸命だったのではなく、必死だったんだと思う」 とK子さんは言う。
「食事の用意が出来なければ、また、義両親達から虐められるでしょ」 とのこと。
「旦那さんも、家のことには、無関心だったんだと思うよ」 と悲しげに呟いた。

 ある日K子さんが、その家の前を通ったら、奥さんが、道路沿いのビニールハウスの中にいた。
 小さめのビニールハウスで、畑仕事の道具などをまとめている場所であった。
 奥さんは、椅子に腰掛けてひと休みしているような感じだったが、その様子が少し異様だったそうだ。
 目がうつろで、ビニールハウスの開かれた扉から、外の上の方を見上げて、ほくそ笑んでいたとのこと。
(何を見ているのだろう?) と、K子さんも釣られて空を見上げたが、そこには、何も無かった。
 それで、K子さんが、 「何を見てるんですか?」 と聞くと、その奥さんは、 「ふふふっ、自分……」 とだけ言って、また笑ったそうだ。
 K子さんは、何となく不気味に感じて、その場を離れた。
 まだ、秋晴れの爽やか頃だったそうだ。
 そして寒い冬がきて、奥さんが、冷たい海で発見されたと聞き、K子さんは、胸が締め付けられるような酷い思いにかられた。
 奥さんが、精神的に壊れてしまっていたことは、明らかだったからだ。
 しかしK子さんは、いたわりの言葉をかけるどころか、逃げ出してしまった。そのことが、やりきれない思いとして残ってしまったという。
 雪が溶けて春になって、K子さんは、再びその家の前を通った。
 ビニールハウスの前で、そういえばと思い出し、ふと、立ち止まって中を覗いた。
 あの時、奥さんが腰掛けていた椅子が、そのままでそこにあった。
「あんまりよく覚えてないんだけどね、何だかとても懐かしい感じがしたの」 とのことで、K子さんは、殆ど無意識のうちに、ビニールハウスの中に入り、その椅子に腰掛けていたそうだ。
 そして、あの日奥さんがしていたように、ビニールハウスの扉の外の景色を眺めた。
「もうね、別世界だったの。太陽の光が、色々反射して、ピカピカ輝いてとても綺麗だった」 と、K子さんは、その時の事を思い出しながら、明るく語ってくれた。
「でもね、急にね、光を遮って入口にあそこのおばあさんが立ってたの。そして、私の顔を見るなり、いきなり(うわぁー)って叫び声をあげて、逃げて行ったのよ。私のこと、お化けかなんかだと思ったのかな。私もやばいと思って、速攻で逃げたけどね」 とのことだった。
 身に覚えのあるおばあさんには、本当に亡くなった奥さんの姿が見えたのかもしれない。
 奥さんにとって、唯一の安らげる場所だったので、そこに魂がとどまっていても不思議ではないと思えた。
 亡くなった奥さんが、見ていた『自分』とは、どのようなものだったのかと、深く考えさせられた。
 もし今、『孤独な自分』を見ている人がいたら、明日の計画をたてるところから、新しくスタートして欲しいと思う。
 K子さんは、続けて、 「おばあさんに何を見たのか聞きたかったけど、もう無理。あのあとすぐ、亡くなったから」 とのことだった。

 そして世界中がコロナ禍となり、私もこのK子さんから聞いた悲しい話をほとんど忘れてしまっていた。
 そしてつい先日のこと。
 私の会社の入社二年目の女子社員が、私の所に寄って来て、話し始めた。
「あのぅ、駅裏の通り沿いに畑があって、公園あるじゃないですか。あそこに公衆電話のボックスあるんですけど、知りませんか?」 とのこと。
 私が、 「えっ、あそこの電話ボックスって、まだあったっけ?」 と聞くと、入社二年目の女子社員は、 「はい、ありますよ。実は、この前、夜に車で通ったんですよ。友達と一緒だったんですが、凄い怖いことがあったんです」 と言う。
 私も、 「何? 何?」 と身を乗り出すと、彼女は、 「あそこ、公園は暗いけど、電話ボックスは明るいから、余計によく見えて、友達が、女の人がいると言うから、私もよく見たら、確かに女の人なんだけど、なんか透けて見えるんですよ。それで、怖くなって、一度は通り過ぎたんだけど、友達が確かめると言って、引き返してしまったんです。でも、その時には、もう誰もいなくて、やめればいいのに、車を降りて、友達が、その電話ボックスの中に入っていったんです」
 ここで、私も、 「えーっ、入ったの? 怖くなかったの?」 とつっこんでしまった。
「そしたらですね、友達が、ちょっときてと言うので、私も仕方なく、車を降りて電話ボックスのそばに行ったら、ふわぁっと、海の匂いがしたんです。磯くさい匂いです。そして、友達が、これ見てと言うから見たら、床に水溜まりがあったんです。その日、雨なんか降ってなかったんです。だから、水溜まりなんて変なんですよ」 とのことだった。
 実は、この入社二年目の女子社員は、仕事のストレスから、体調を崩して、長期間休職していた。それが、ある日突然、急に出勤してきて、私にこの話をしてきたのである。
 そして、 「私、なんか、自分はこの話を誰かにしないといけないと思って、そしたら、会社にこれたんです。あんなに会社が嫌だったのに、不思議だけど、自分じゃないみたいな感覚なんです」 とのことだった。
 それで私も、前に聞いた友人のK子さんの話を思い出した。
 その電話ボックスは、自殺した奥さんの畑の前にあったからだ。
『海の匂いがした』というので、どうしても海で亡くなった奥さんを思い出してしまった。
 それで、久しぶりにK子さんに会うと、K子さんは、病気かと思われるほどやつれていて、まず驚いた。
 そして、私が電話ボックスの話をすると、K子さんは、 「奥さんが亡くなって、うちに無言電話がくるようになったの。最初は、イタズラだと思ってすぐ切ってたけど、なんかね、ぴちゃん、ぴちゃんという感じの水の音がして、何となくだけど奥さんかなと思うようになったの。だから、話しかけてみたんだけど、向こうは何も話さないし、私の方からばっかりなんだけど、世間話とか仕事の愚痴とか、黙って聞いてくれるの。最後はいつも突然切れるんだけどね」 とのことだった。
 K子さんの後悔の念が、電話という形で繋がってしまったのかもしれない。
 私は、K子さんを説得して、一緒に神社でお祓いして頂いた。
 今現在、K子さんも会社の女子社員も電話ボックスに入った彼女の友人も元気にしている。

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