黒松の森

 夏休みになると、僕はいつも祖父母の家に帰省する。
 小学五年生の僕にとって、都会から遠く離れた山奥の村は、まるで別の世界だ。
 祖父母の家は古い木造で、裏には畑が広がり、その先には『黒松の森』と村では呼ばれている深い森がそびえている。
 仲の良い村の子供たちは、僕が帰省する度にいつも声をひそめ、この森の話をする。
 気になった僕は以前、祖父に森について尋ねたことがある。
 しかし「黒松の森の奥には、絶対に行っちゃダメだ」と、厳しい口調で言うばかりで、理由を聞いても「昔からの約束だ」としか答えてくれなかった。
 だが、子供の好奇心というのは抑えるのが難しい。
 夏休みも中盤に差し掛かった、むっとするような暑い午後。僕は決心した。
「ちょっとだけ、森の奥を覗いてみよう」
 この日は祖父母は畑仕事で忙しく、「いつも1人でも村で楽しそうに過ごしているから」と、誰も僕を見ていない。
 村の子供たちも誘おうと、森までの道中に誰かいないかと探してみたが、その日によって誰も見つからなかった。
 だから、一人で森の入り口に立った。
 森の中は、昼間なのに薄暗く、木々の間からひんやりした風が吹いてくる。
 少し怖かったけど、好奇心が勝った。 木の根っこを踏まないように、どんどん奥へ進む。
 鳥のさえずりが遠くなり、静けさが耳に響く。
 どれくらい歩いただろう。 突然、目の前に苔むした石の祠が現れた。
 祠の前には、朽ちかけたお供え物が散らばっている。
 祠の奥には、土地神の石像があった。
 その目は、真っ黒で底なしの闇のようだった。 まるで、僕の心の奥まで見透かし、飲み込んでしまうような目。
 ゾッとして、息が詰まった。
「なんだ、ただの祠じゃん」って自分を落ち着かせようとしたけど、空気が重い。
 背筋が冷たくなった瞬間、背後でガサッと音がした。
 振り返っても誰もいない。でも、誰かに見られている気がして、慌てて走って家に逃げ帰った。

 家に着くと、祖父が縁側でタバコを吸っていた。
 僕の顔を見るなり、祖父の目が鋭くなった。
「お前、まさか森の奥に行ったんか!?」
 その声に、僕はビクッとしてしまった。 「行ってないよ!」と嘘をついたけど、祖父は信じていないようだった。
「あの森の奥には、土地神がいる。いや、俺の爺さん達なんかは土地神なんて呼んでいたが、あそこにいるのはそんなイイ者じゃねえんだ。遊び半分で会いに来るようなヤツを許さねえんだよ、アレは」
 祖父の言葉が、頭の中でぐるぐる回った。
 その夜、変なことが起こった。
 寝ていると、窓の外から甲高い笑い声が聞こえる。
 目を開けると、窓の外に黒い子供の影がいくつも揺れている。
 叫びそうになったけど、声が出ない。
 あの祠の土地神が、僕を追いかけてきたんだ。
 次に意識がはっきりした時には朝になり、祖父が近所の住職を連れてきた。村で有名な、土地神の除霊に詳しい人らしい。
 住職は僕の顔を見て、静かに言った。
「正直に話してくれるかい? 黒松の森の祠を見たんだろ。土地神は、どんなに逃げても追ってくるよ」
 僕は震えながら、森に行ったことを白状した。
 住職は難しい顔をして、「今夜、除霊の儀式を行う。だが、土地神の執着は強い。覚悟しなさい」と言った。
 その夜、祖父母が見守る中、家の庭で儀式が始まった。
 住職がお経を唱え、塩をまき、火を焚く。 僕はただ座って、震えながら見ていた。
 すると、突然、風が吹き、火が激しく揺れた。
 遠くから、誰かが笑うような高い声が聞こえる。
 その笑い声は、僕の頭の中に直接響いてくる。
 住職が叫んだ。
「目を閉じろ!  土地神の姿を見てはいかん!」
 風が強くなり、木々がざわめく。お経の声がかき消されそうになる中、住職の声が震えているのが分かった。
 どれくらい時間が経ったのか、風がピタリと止んだ。
 静寂が戻った瞬間、住職が小さく呟いた。
「ごめんなさい……私には無理でした」
 その言葉に、僕は凍りついた。
 住職の顔は青ざめ、額には汗が光っていた。
「土地神の力は、私では抑えきれん。君は……もう逃げられん」
 祖父が叫び、祖母が泣き崩れた。 僕はただ、呆然としていた。
 心臓がバクバクして、目の前が真っ暗になった。
 その夜、僕はベッドで目を閉じることができなかった。
 窓の外から、ずっとあの笑い声が聞こえる。 黒い影が、部屋の隅に揺れている気がした。
 夏休みが終わっても、都会に帰っても、あの底なしの闇のような目は、僕の夢に現れる。
 どこにいても、土地神は僕を見ている。 もう、逃げられない。

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