これは、つい最近あった中学の同窓会の二次会でのことです。
一次会では十数人ほど集まっていたのですが、やはりそれぞれの生活があるせいか、時間が経つにつれて少しずつ帰る人が出てきて、最後には三人だけが残っていました。
わたしと、村瀬(仮名)、そして佐々木さん(仮名)。
当時はみなクラスの委員で、文化祭の準備や係の仕事なんかで一緒に過ごすことが多かった面々です。
とはいえ、特別仲が良かったというわけでもないのに、なぜか居心地がよかった三人組でした。
誰かが特別に盛り上げるわけでもなく、間が空けばそれはそれで許されるような、静かな安心感がありました。 久しぶりに集まっても、その空気は変わっていなくて――最初は近況報告なんかをぽつぽつと話しながら、お酒を少しずつ飲んでいました。
「佐々木さんって、今どこに住んでるの?」
「新小岩のほう。通勤はまあまあ大変かな」
「へえー、俺の職場、そっち寄りだわ。駅前のラーメン屋、まだある?」
そんなふうに、誰も大きな声を出さず、少しずつ昔を思い出すように話していました。
中学のときの話題になると、思い出は自然と膨らんでいきました。
文化祭のとき、全員でひとつの劇をやったこと。委員会で意見が割れて、先生を困らせたこと。
そうやってぽろぽろと話していくうちに、村瀬がふと、少しだけ真面目な顔をして口を開きました。
「そういえば佐々木さんって、1年生の途中から転校してきたよね。けっこう半端な時期だったから、ずっと気になってたんだけど……来る前って、どこに住んでたの?」
その瞬間、急に、空気が少しだけ変わりました。
本人にとって触れられたくない話だったのでは、とわたしは一瞬ひやっとしたのですが――佐々木さんは「うーん」と軽く唸るようにして、少しだけ視線を落としました。
「……ちょっと変なところというか、不思議なことがあって、こっちに引っ越してきたんだよね」
その言い方が、あまりにも自然で淡々としていたので、逆に妙に印象に残りました。
そして、そのまま佐々木さんはグラスを置いて、静かに語りはじめました。
私が昔住んでいたのは、町と呼ぶには小さすぎるが、村と呼ぶには半端に整備されたような、そんな不思議な場所だった。
商店街と役所と、駅と――あとは、どこまでも同じ風景の、のっぺりした住宅地。
人の気配はあったけど、活気はなく、音も少ない。
そんな土地で、母と父と、父方の祖母と私の4人で、ずっと静かに暮らしていた。
遊びもあまりない環境で、暇を持てあます子供たちのあいだでよく話題にのぼっていたのが、“怪獣おじさん”と呼ばれてる人だった。
いつも白い作務衣みたいなのを着て、独り言をつぶやきながら毎日同じ時間に同じ道を歩いてた。
「ゴオ……ゴオ……」
「おわった、おわった」みたいな、変な擬音?みたいなことばかり呟いていた。
子どもたちは、意味も分からず、彼を「怪獣おじさん」と呼んでいた。
なんで怪獣おじさんって呼ばれていたのかはわからない。みんながそう呼んでいたから、私も呼んでいた。
当時は、まったく気にしていなかった。 でも――今思えば、少し変だった。
町の大人たちは、みんな妙に、怪獣おじさんに対して優しかった。
話しかけるでもなく、近寄るでもなく、でも、すれ違うときに頭を下げたり、目を伏せたり。
優しかったというよりかは、まるで――なにか“上位のもの”に対する扱いみたいな、そんな感じだった気がする。
小学校の頃は、まわりのみんなが怪獣おじさんのことをからかっていた。
私は、そういうことはよくないと、当時からなんとなく思っていたから、からかいには参加しなかった。
けれど、クラスの男子がからかっているところを大人に見られて、こっぴどく叱られている……なんて様子は、なんとなく記憶に残っている。
中学校に入るくらいの頃には、まわりのみんなも成長して、からかうような人はいなくなった。
怪獣おじさんは、もはやこの土地の“風景”とも呼べるような、そんな感覚だった。
そんな距離感を保っていたんだけど。 ある日、怪獣おじさんが交通事故に遭っちゃった。
トラックに撥ねられた、って聞いた。 町中がしんみりしていた。
……というよりも、異様なまでに“沈黙していた”と表現したほうが正しいかもしれない。
それまで無口だった大人たちが、より黙り込んで、ただ遠くを見るような目をしていた。
そのあと、土地をあげての盛大な葬儀が行われた。
知らないお坊さんみたいな人もいたし、式次第も宗派とか全然関係なさそうだった。
私も参加させられた。 生まれて初めての葬儀だったこともあって、すごくはっきり覚えている。
「お葬式ってこういうものなんだ」って思ったけど、今思うとあれは本当に異質だった。
参列者の表情、遺影の色、鳴り響く鳴き声のような音……そんな、普通ではないものがずっと入り混じっていた。
誰も気にしてないふりをしてたけど……私だけじゃない、みんな聞こえてたはず。
その翌日から。 町全体が、なんというか……“揺れてる”感じになって。道路に亀裂が走ったり、電柱が倒れたりとか、そういう物理的な話じゃない。
もっと、空気とか、視界の端とか、音の抜け方とか、そういうのが歪んだみたいな感覚。
学校は一時休校になるし、大人たちはずっと騒いでいるし、ほんとうに、ずっと変な感じだった。 そんな中、祖母が私達に、すごい剣幕で言ってきた。
「……悪いことは言わない。すぐにこの土地を出なさい。もう、ほどいてくれない」
祖母ははっきりとは言わなかったけれど、多分これは怪獣おじさんの話をしているんだろうな、と瞬時に思った。
「ほどいてくれない」はなんのことか今でもさっぱりわからないけど……結局、私達はすぐ引っ越して、そこからはあの土地にも帰ってないし、祖母とも連絡を取ってない。
話し終えた佐々木さんは、「ふふ、なんか変なこと話しちゃったね」と、おどけたように笑いましたが……その笑顔はどこか曖昧で、ほんの少しだけ揺れているようにも見えました。
村瀬が箸を置いて、しみじみとした口調で言います。
「で、その土地を出てきて、今に至るってわけか。なるほどね」
わたしもグラスを持ち上げながら、相づちを打ちました。
「その“怪獣おじさん”って、結局なんだったんだろうね」
すると、村瀬が間をおいて、少し首をかしげるようにして、ぽつりと呟きました。
「あれじゃない? “怪獣”じゃなくて、“解呪”だったとか……いや、ないか。さすがに」
その瞬間、佐々木さんの顔から、ふっと笑みが消えたように見えました。
一瞬、呼吸が止まったような静けさがテーブルを包みます。
「……あー、それ、言われてみたら、そうかも」
彼女はそう答えましたが、その声はどこか上の空。口元はまだ笑っているのに、目だけが遠くを見つめています。
しばらくして、そのまま静かにグラスの水を飲み干すと、目を伏せてしまいました。
……まるで、まだそこに“怪獣おじさん”が立っているのを思い出しているかのように。
それから先は、自然と会話が途切れることが増えていきました。
誰が悪いということではなくて、ただ何となく、聞いてはいけないことを聞いてしまったような、そんな空気が、じわじわと漂ってきたのです。
お酒も進まず、時間だけが流れて――やがて、わたしたちは「そろそろ帰ろうか」と互いに言葉を交わすこともなく、ゆっくりと立ち上がりました。
村瀬は、「ごめん、俺が変な話振ったせいで……また今度集まって飲みなおそうぜ」と明るい口調で声をかけてくれましたが、佐々木さんは心ここにあらずといった様子で、はいとも、いいえともつかない曖昧な返事をしただけでした。
その日は、それぞれが別々の方向に歩いて帰りました。
夜の街は静かで、遠くの踏切の音が、やけに長く響いていたのを覚えています。
それ以来、わたしたちは何度か連絡を取り合っていますが―― 佐々木さんの口から、あの土地の話や、祖母のこと、そして「今はどうなっているのか」について語られることは、一度もありません。
でも、ひとつだけ気になっていることがあります。
以前、何気ない雑談の中で「最近あまり眠れなくて」と彼女がこぼしたとき、ふとこう言っていたのです。
「夢の中に、知らない人が立ってて。毎回ちがう場所なんだけど、いつも同じ背中が見えて、ずっと何かを呟いている。なんて呟いているかはわからないんだけど……なんでだろうね」
彼女はもう、ほどかれないのかもしれません。