父のトラウマ

 私の父は、生前、道の話をよくしていた。
 道路地図の本を愛用していて、私の前にページを開いて「この道知ってるか」と聞いてくる。
 私が「知らない」と答えると、嬉しそうにその道の素晴らしさを説明してくる。
 しかし、また少し時間が経つと、再び同じ道を指し示して「この道知ってるか」と聞いてくる。
 つまり、認知症だったのだが、道の話になると、やたら詳しかったし、何より楽しそうだった。
 父は、自転車を愛用していたので、通勤も私用の移動も自転車だった。
 それで、裏道までよく知っていたのだと思う。
 自転車で出掛けていた時は、長い距離を走ることより、坂道走行が一番きつかったそうだ。だから、なるべく坂道を避けて、遠まわりすることもあった。

 ある日、父が自転車で土手の上の舗装された道を走っていたら、土手の終わり部分から一般道にかけて、緩やかな下り坂になっており、何気なく横の建物を見たら、そこはホテルで、全面ガラス張りの二階部分と高さが同じであった。
 ひと目でチャペルウエディングの様子が、見てとれたという。
 ガラス窓の上部に大きな十字架と白いアーチの付いたステージがあり、神父の後ろ姿。その前に新郎新婦が並んで立ち、奥には、沢山の親族らしい人々がいて、怖いくらいの笑顔で見守っていた。
 そして父は、そのまま、ホテル前の坂道に入っていた。
 徐々にスピードが増して、前方に目線を向けた瞬間、身体が浮いて、そこからの記憶が飛んだ。
 気が付いたのは、救急車の中だったそうだ。
 そして、病院で傷などの手当てを受け、検査の結果も良好ですぐに退院した。
 父は、よそ見をしていた為、スピードが出ていた坂の途中で、バランスを崩して投げ出され、頭を打って気を失ったらしい。
 しかし父は、運動神経が良かった為、軽症で済んだのだと思う。

 その後父は、坂道での自損事故がトラウマとなり、自転車から四駆のいかつい車に乗り替えて、更に県をまたいで、遠くまで出歩くようになってしまった。
 道路地図を参照し、最善のコースを決めて、ドライブを楽しんでいたようだ。
 そして再び、車で、あの土手の上を通った際、ホテルのチャペルウエディングの事を思い出し、父は、下り坂の手前で車を止めた。横のホテルを見て、大変驚いたそうだ。
 それは、ボロボロに朽ち果てた廃ホテルだった。
 認知症の父が、繰り返し聞かせてくれた話である。

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