顔に出る

 ある時、知人との会話の中で「今までに怖い体験をしたことはあるか」という話題になりました。
 これは、その時に知人が話してくれたエピソードです。

 大学時代の友人の家にあった人形の話をしますね。 知人はそんな言葉から語りを始めました。
 その人形に初めて会ったのは、大学二年生の頃でした。
 きっかけが何だったのかは忘れてしまいましたが、講義が終わった後、家へ帰る友人について行く形でその家にお邪魔したことを覚えています。
 実家住まいの私とは違って一人暮らしをしている友人に羨ましい気持ちを伝えると、友人のほうは、ホームシック経験者としては実家暮らしが羨ましい、と笑っていました。
 靴を脱いで部屋へ上がり、麦茶を用意してくれている友人を待ちながらなんとなく室内を眺めていた時、棚の上に飾られているものに目が留まりました。
 よくある日本人形のそれよりも細身で、幼顔とまではいかないまでも、若い女の子という感じの顔つき。瞳に西洋風の輝きがあるのが印象的でした。
 海外のドール人形が黒髪を伸ばして着物を着ている、と表現するほうが想像しやすいかもしれません。
 麦茶を持ってきた友人が「遊びに来てくれたこと、その子も喜んでるよ」と言うのを、最初はただのユーモアだと思っていました。
 その人形は、都会での一人暮らしを心配したおばあちゃんがお守り代わりにとプレゼントしてくれたもの、とのことでした。
 友人はそれだけでなく、こうも言いました。
「この子は感情が顔に出やすいから、悪い人を家にあげないように、って」
 人形やぬいぐるみが好きな人の中には時々、人形の表情がわかるという人がいますよね。それほどその人形に愛着があるということなのでしょう。
 友人にとって大切な人形なのだなと理解しましたが、私には“ちょっと珍しい人形”という程度の認識でした。
 その友人の家には何度か訪問しましたが、人形のやや垂れた目尻とわずかに上がった口角はいつも変わり映えしないので、最初は目を引いていたものの、次第にインテリアの一部として室内の景色に溶け込んでいきました。
 それなのになぜこの人形の話をしようと思ったのか、理由はその年の冬の出来事にあります。
 人形を飾っている友人の家で宅飲みをしようと決まったのは、自然な流れからでした。
 同じ学科の友人数人で飲み会を開催しようということになったのですが、年末の忘年会シーズンでどの店も混んでおり、大学から一番近いところにあるという理由で、その友人の家が会場になりました。
 それなりにスペースのある友人の部屋は、ローテーブルを女子四人で囲んでもくつろげる広さで、過去にも何度か集いの場になったことがあり、この頃には既に私たちの馴染みの場所になっていました。
 はじめはいつも通りの女子会でしたが、その日だけ違っていたのは、友人の一人のもとへ、彼氏から連絡が入ったことでした。
 どうやらお酒に弱い恋人を心配しての連絡のようで、迎えに行くと言っている、とメッセージの内容を私たちにも見せてくれました。
 友人の彼氏とは以前に大学で顔を合わせたことがあったので、どんな人かは知っています。
 それに、その友人は私たち四人の中で一番アルコール耐性が低く、住んでいる場所も少し距離があったため、信頼できる人に迎えに来てもらえるというのは私たちにとっても安心でした。
 当の友人のほうは、帰らなければならないことに少し不服そうにしていましたが。
 しばらくして友人の彼氏が到着すると、彼女である友人が「待って、これだけ飲んじゃうから」とさっき開けたばかりの缶を勢いよく傾けようとしたので、友人と私で慌てて止めに入りました。
 行動から既に酔いが回っている友人でしたが、どうしてもと残りのお酒を飲みたがったので、友人の彼氏にもう少しだけ待っていてもらえないかと私たちからも頼みました。
 ですが、ただじっと待っていてもらうのは申し訳ない、ということで、五人で一杯だけ乾杯しようという形で話がまとまりました。
 家主の友人が冷蔵庫へ冷えた缶を取りに行っている間、一人分の座るスペースを空けるためにそれぞれが少しずつ場所を詰めます。
 私も少し位置をずれ、顔を上げると、ちょうど人形の飾ってある棚が目に入りました。
 何の気なしに見たその人形は、初めて見る顔をしていました。
 緩やかな曲線を描いていたはずの彼女の口元は、真一文字に硬く結ばれています。
 目頭に力が込められていて、前髪で隠れているにもかかわらず、眉が吊り上がっているのがわかる剣幕でした。
 自分も酔いが回っているのかと思い、瞬きをしてみましたが、その表情は間違いなく険しいのです。
 何度目かの瞬きの後、ビールの缶を持って戻ってきた友人の声で、私はようやく人形から視線を逸らすことができました。
 そのまま友人が座ってくれたおかげで、私の位置からは人形が見えなくなり、とてもホッとしたのを覚えています。
 人形が視界から消えたことで少し冷静さを取り戻すことができたのか、次に浮かんできたのは、あの人形はいつからあんな表情になっていたのだろう、という疑問でした。
 今考えてみれば、冷静になったつもりでいただけで、そんなことを真剣に考えている時点で全然冷静ではなかったのかもしれませんね。
 その直後、プルタブを引く音につられて視線を向けた先で、友人の彼氏の姿がふと目に留まりました。
 さっき見た人形の表情と、「いつから……」という疑問が再び頭に浮かびましたが、すぐに乾杯の流れになったので一度考えるのをやめ、そこからは友人たちとの会話に意識を注ぎました。
 やがて、友人の缶の中身が空っぽになると、その友人は彼氏に支えられながら部屋を去っていきました。
 もう一人の友人がトイレに立ち、家主と私の二人きりになったタイミングで、話題に出すなら今だと声を掛けると、友人からは「もしかして、気づいた?」と遠慮がちな問いが返ってきました。
 人形のことかと私が尋ねると、友人が静かに頷いて「怒ってたよね」と言うので、どうやら私が酔っていたせいで見間違えたのではなかったということがわかりました。
「お酒飲んでなかったら大丈夫だったと思うんだけど……私も初めて見る顔だったからちょっと怖くて、申し訳ないけど早めに帰ってもらっちゃった」
 友人はそうも言っていましたが、トイレに行っていた友人が戻ってきたために、話はそこで途切れました。
 それから解散して部屋を出るまでの間、人形のほうへは一度も目を向けませんでした。
 私が見ていた限りでは、家主である友人も、私と同じだったように思います。
 人形のある友人の家には、あの日以来一度も行っていません。
 誘われても何かと理由をつけて断る私の心の内を察してか、友人は、私のことはあの子も歓迎してくれている、と言ってくれるのですが、どうしても勇気が出ないのです。
 こんなに怯えている私を見て彼女が笑顔のままでいてくれるかどうかわかりませんし、もしも彼女の表情が歪んでいたら、どうすれば良いかわかりませんから。

 そう言って知人は話を締めくくりましたが、私には一つ気になったことがありました。
 知人は、友人の彼氏が来たことで人形の表情が険しくなったと思っているようでしたが、その解釈には違和感がありました。
 家主が言っていた「お酒飲んでなかったら大丈夫だったと思うんだけど」という言葉が、どうにも引っかかるのです。
 知人が人形の表情の変化に気がついた時点では、彼氏の手元にはまだお酒はなかったはずです。
 そのことを伝えると、知人も確かにその通りだと同意してくれました。
 家主の言っていたことを信じるなら、知人を除く、残り二人の女子会メンバーのうちどちらかが、彼女の機嫌を損ねてしまったということになります。
 知人は少しの間考え込んだ後、「あ」と声を上げました。
 聞くと、あの日酔った友人を連れて帰った彼氏が、そのしばらく後に、顔にガーゼを当てていた時期があったそうです。
 どうしたのかと聞いたところ、彼女であるほうの友人が「たいしたことじゃないよ」と明るく答えてくれたのですが、その時、彼氏の表情がほんの一瞬だけ、怯えているように見えたそうです。
 何か言いたそうにも感じたものの、彼女に「ね?」と笑いかけられた後の顔は既にいつも通りに戻っており、なんとなく触れづらい雰囲気だったため、それ以上話すことはなかった、と知人は言っていました。

 あの日人形が向けていた怒りの矛先は、彼氏ではなく、彼女のほうだったのでしょう。
 数年越しに答え合わせをすることとなった状況に、知人はひどく動揺していました。
 動揺した知人を見て、純粋な疑問だったとはいえ謎を紐解こうとした自分の行いを反省しました。
 人形を持っている友人についてもカップルの二人についても近況は知らない、と言う知人に、私は「それで良いと思うよ」と言葉を返してこの話題を終わりにしました。
 わからない方が良いこともあるのだと、私は思うのです。

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