指差す雑踏

 扇風機の微かな風のみを頼りに暑さを凌ぐ夜。
 テレビからは行方不明者の情報提供を促すニュースが流れ、アナウンサーが同じような文章を繰り返しているのが聞こえる。
 行方不明者が云々という何度も聞いたその内容は既に耳を通り越し、頭の中では明日の計画を考えていた。

 大学への進学を機に、晴れてこの春から田舎から都会に居を移したのだが、思い描いた栄光の大学生活とは裏腹に、現実は学費と家賃、最低限必要な生活費をやりくりし、友達との遊びの費用をいかに捻出するかを繰り返す毎日だった。
 しかし、都会で遊びに行くと言ったら聞こえはいいが、所詮は田舎よりも選択肢が多いというだけだ。最初の数回が過ぎれば、あとは飽きていくだけ。
 心の底から腹を割って話し合える友だちがいるわけでも、日々の癒やしを与えてくれる彼女なんかいるわけでもない。
 初めは何もかもが華やかに見えた都会の景色も暮らしも、住んで見ればなんてことのないものだった。
 どこまで歩いても似たような景色の繰り返し。同じような服装の同じような顔の男女が入り混じる道を歩く繰り返し。一月も経てば、新鮮さはとっくに薄れた。
 退屈な日々に飽き飽きしているうちに、気がつけば朝は夜になり、春は夏になった。

「……でさ、その交差点で”見た”っていう話をよく聞くわけよ。今から見に行ってみようぜ」

 ふと我に返ると、友人のYが部屋にいた事を思い出す。
 ついうっかり彼の存在を忘れ物思いに耽っていたため、何の話をしていたのか今一度聞き直す。Yはため息を吐きながらも話し直してくれた。
 最近、俺たちの通う大学の一部でまことしやかに囁かれている噂があるという。
 それは、雑踏の中で”ある人物”を見つけてしまうとヤバイ、という都市伝説だそうだ。
 そういう話によくありがちだが、話の大部分は「見るとヤバイ」という事のみで、内容の詳細は分からないままに憶測が飛び交い、今やただの噂程度になっている。
 誰も元となったオリジナルの話は知らないし、それを見たら何か怖いことがあるのかどうかすらも分からない。
 ただ、その”ある人物”の特徴だけは何故か、どの噂でも一致しているという事らしい。
 それは、”どこかに指を差している”というものだった。

 明日の計画、即ち提出せねばならないレポートがあったため、結局その日はYとは出掛けず、彼はつまらなそうに捨て台詞を吐いて帰っていった。
 机に向かい、暗い室内で一人作業に没頭する。聞こえるのはキーボードの打鍵音のみ。単調極まりない作業に、間もなく頭の中は例の話で一杯になった。
 下らない都市伝説の一つに過ぎないのに、俺はその噂が何故かとてつもなく気になった。
 よく聞く有名な話とは違う、この街にしかない怪談。その聞き慣れない内容はさることながら、何を指差しているのか興味を惹かれ、俺はそれをこの目で見てみたくなった。
 退屈な日常を打破できる。それだけで理由は充分だった。

 それから数日後のある日。
 その日の午後に出席予定だった講義が無くなった。講師の先生が遅刻だか欠席だかで急遽中止になったとのことだった。
 午後の予定が空き、どうしようかと迷っていたとき、ふとYの話を思い出した。
 例の話の交差点のある場所はここからそんなに遠くない。時間も出来たし丁度いいと思い、俺はそこに行ってみることにした。

 平日の昼過ぎだが、それでも交差点は人混みで沢山だった。
 昼休憩の帰りだろう、ランチボックスを片手に歩くOLたち、つまようじを咥えながら歩くおじさん、腹をさすりながら友達とふざけあう学生の集団。
 人で溢れた横断歩道も、歩行者信号が赤になると一気に行き交う車で歩道の線も向かいも見えなくなる。
 日差しは暑く、ジリジリと照り付ける太陽が恨めしい。何故かふと、目玉焼きってこういう気持ちなのかな、と訳の分からない事を思う。
 やってくる車の風を肌で感じ、その車を目で追うと、道の向こうでは陽炎が揺らめいている。
 額から滲む玉の汗を拭い、しかめっ面のままどこを見るでもなく、横断歩道の脇でガードレールにもたれ掛かる。
 拭ったはずの汗が再び額から滴り落ち、それも耐えながらしばらく何をするでもなく立っていると、早くも嫌になってきた。
 こんな何の変哲もないただの交差点に何があるというのか。いくら暇を持て余したとは言え、下らない都市伝説にまんまと踊らされて俺はこんなところでなにをやっているんだ。
 馬鹿馬鹿しい、もう帰ろう。
 そう思ったと同時に車の音が止み、歩行者信号が青になる。信号待ちをしていた人々が同じ歩調で前へ進み出した。
 丁度いいタイミングだ。とガードレールから腰を離したとき、上がった目線の先に忽然とそれは現れた。
 一瞬──。ほんの一瞬だけ見えた不可解なもの。
 コンマ何秒の間に人波にかき消されてすぐ視界から消えてしまったが、その刹那、脳裏に強烈に焼き付いて消えない、その姿。
 見た。確かに見た。
 今も人の波が動き、目まぐるしく目の前の光景は揉まれていく。
 二度と見えなくなる前に、自分の見たものが陽炎が見せた幻ではないことを証明したい。もう一度だけ見てみたい。
 目を据えた俺を斜め左前方から来たサラリーマンが訝しげに見て、ぶつからないよう俺の正面から体を逸らした、その瞬間。
 前方に空いた人と人の隙間、さらにその奥。また見えた。幻じゃない。存在する。確かにそこにある。
 改めて見えたそれは、人の肌と言うには黄土色過ぎる外見をしていた。
 例えようとするなら、放置しすぎてダメになった鶏肉の古く劣化した脂肪の色。それが一番似ていた。
 だが表面の質感はむしろ乾燥していて、油分どころか水分すらも感じられない。凹凸のある禿げ上がった後頭部、浮き出すぎている脊椎と肋骨は生気を感じさせない。
 へこんだ臀部のさらに下には、やはり黄土色のゴボウが二本伸びている。
 目線を上半身に戻すと、そんな弱々しい下半身からは想像できない筋骨隆々とした肩と二の腕がある。肩を追っていった先、脚よりも太い、体の前方へ垂直に伸びた前腕は長すぎる。
 その全ての印象が、普通の人体の構造を見る感覚とどこかずれている。姿は辛うじて人であり、だがやはり人ではない。
 間接の位置、肘や膝の間隔、向き、角度が、どう見ても人のそれとかけ離れている。
 動物ともまた違い、全く知識のない遠い異国の植物を初めて見るような感覚だった。
 そして、それがいる場所だけ、古いVHSの早送りのようなノイズがあるのに気づく。目がおかしいのではない、回りの人は普通の配色に見えるのだが、奴だけノイズが掛かっているようだった。
 何もかもが現実離れしている。
 姿を目撃してからもう一瞬待って、斜め前から現れた女性に奴の身体が隠れ、その代わり、先程は見えなかった奴の手首から先が露になる。
 向かって右側の先、どこかを指を差していた。
 気になる。その先は何を示しているのか。好奇心が止まらない。
 見えた情報を処理するよりも早く、俺の欲求はそいつが差しているものに向いた。
 何を? 誰を? 何処を指している? あともう少しだけ人の波が終われば、あと一歩前に出れば、見えるかもしれない。
 足が前に出る──。
 その瞬間、突如としてけたたましいクラクションが鳴り響き、轢き殺されてぇのか、と怒号が聞こえた。
 はっと我に帰ると、俺は車の行き交う交差点の真ん中で立ち尽くしていた。いつの間にかとっくに歩行者信号は赤になっている。
 もう一度向こうの歩道へ目をやると、もうそれは見えなかった。
 歩道へ戻った時の心拍は異常だったろう。気づけば最初に居たガードレールで身を支えていた。
 交差点へ入る前よりも酷く汗だくになってしまったのは、ただ暑さのせいではない。
 怖い話を聞いたときやホラー映画を見たときとも違う、そんなチープなものではなく、確かな生命の危険信号を全身が発していた。
 それは比喩ではなく、車に轢かれそうになったと言う直接的な意味でもなく、本能で感じる死への恐怖そのもの。
 行かなくて良かった。
 あと一歩できっと俺は死んでいた。

 それからまた数日後、記憶の熱が冷めない頃にYがやってきた。先輩たちとの約束が無くなったという。
 誰だかの彼女だか彼氏だかが家出したらしい、とかいうなんとも漠然とした理由だった。
 しかしこちらとしてはそんな事よりも重大な話があったため、むしろYの訪問は好都合だった。
 早速この前の交差点の話をYにすると、彼は目を輝かせて話に聞き入っていた。
 だが、俺が見た異形の話になると、途端に表情を変え、怪訝な面持ちで頬杖をつく。

「俺が聞いた話だと、背の高い女だったはずだぞ? お前本当に見たのかよ」

 そんなはずはないとしばらく押し問答になり、ムキになった俺がこれから行ってみればいいと提案すると、Yも賛同しそのまま例の交差点に行くことになった。
 先日訪れたときとは異なり、この日は午後から雨が降っていた。
 曇天に包まれた交差点は十四時ごろという時間にも関わらず薄暗く、道行く人々は皆傘を差し、十人十色の傘が歩道にひしめき合っている。
 そのお陰で視界は悪く、それは差している当人も同じで、俺とYは度々自分の傘を持ち直す。
 雨は時間が経つに連れて激しさを増し、角度を変えなければ足元だけでなく肩口までもがすぐびしょ濡れになる。 かといって肩口を守れば前方の視界が狭くなり、視覚からの情報が少なくなってしまう。
 俺とYは先日俺が目撃した場所と同じ位置に立ち、ヤツの出現をひたすら待っていた。
 横断歩道が変わり、雑踏が動き出す。その時の横断歩道は比較的人が少なく、視界は割と開けていた。

「お、おい……あれ」

 Yが震えた声で俺の濡れた肩口を叩く。
 もしやと思いすぐさま横断歩道の奥に目をやると、もう既に奴はそこに居た。
 先日とは違って、今度はハッキリとその全身像が見て取れる。相変わらず見るもおぞましい異形だった。
 だが、向かって右の方、指を差している先はやはり雑踏で隠れて見えない。
 もどかしく思ったが、俺は先日のことを思い出し、思わず目を逸らしてしまった。だが何か違和感が残る。先日とは違う何かだ。何だろうか。
 答えが出る前に視線を逸らしたはずみでYの方へ向くと、Yは俺が見た異形の方とは違う方向へ目を向けていた。
 もう少し左側の方、Yの目線を追ってみると、そう遠くないが雑踏の密集度は高い方、傘と傘の隙間に背中を向けた女性が見えた。
 だがすぐに違和感に気づく。これだけの雨で傘も差していない。そしてなにより、その髪は濡れていない。Yや俺ですらこんなに濡れているのに。
 あの異形もそうだ。先日は雨が降っていなかったから、奴の表面が乾いているのは分かる。だが、こんなに激しい雨なのに奴の体表は湿気すら帯びていなかった。
 やはり説明がつかない。この世のものではないのだ。
 そう実感した途端、一気に怖気が全身を襲う。
 こいつらは見てはいけないものだった。
 すると、その女の隣りにあった傘がいくつか少し横に逸れ、彼女の右側が視認出来るようになる。
 やはりあの異形と同じで、向かって右側のどこかを指差していた。
 何故だ? 交差点の怪異はあの異形ではないのか?
 その疑問を口に出す前に、Yが突然傘を捨てた。

「先輩……?」

 Yはそう呟いた後、ゆっくりと女に向かって歩き出した。
 予想していなかった展開に俺は面食らい、止めるのが間に合わなかった。気付いたときにYは人混みの中へ揉まれ、俺の伸ばした手の先から消えた。
 俺も慌てて傘を放り出しYを追ったが、俺達が横断歩道の前で立ち往生していた隙に、いつの間にか渡る人間が多くなっていたらしい。
 景色が人で沢山になり、思うように前へ歩けず、それでもYの消えた方に向かおうとする。
 なんとか数歩前に出た途端、今までと比べ物にならない嫌な感覚に襲われる。
 身体が近づくことを拒否するのだが、それでも否応なしに引きずり込まれ、人一人の力程度ではどうしようもなく抗えない重力のような感覚。
 これ以上は無理だった。俺は慌てて踵を返し、向かってくる人混みを半ば突き飛ばすように歩道側へと戻りだす。
 戻る途中、すれ違った人が指を差していたように感じた。
 一瞬思考が止まる、だが止まって考えている余裕はない、一刻も早くこの交差点を出なければいけない。
 構わずにかき分けた人混みの先、また指を差している人とすれ違った気がした。
 嫌な感覚はどんどん強くなる。後ろをもう一度振り返れば、恐らくもう二度と戻ってこれない。
 駄目だった。近づいてはいけなかった。常識が通じるものではなかった。
 気づけば俺は情けない声を上げながら、どいてくれと叫びながら必死に人混みへ突進していた。
 途中何かにつっかかり、派手に転びながら俺は歩道のガードレールに勢いよくぶつかった。
 痛みにしばらく気を取られていると、大丈夫ですか、と声を掛けられた。見上げるとそこには心配そうに俺を見下ろすスーツ姿の女性が居た。
 何を喋ればいいのか分からず、精一杯声を振り絞ってぎこちない感謝だけを伝える。
 女性は近くに落ちていた俺の傘を拾い、俺のもとへ届けてくれた。気付くと、周りに少しだけ人集りが出来ている。
 俺はもう一度交差点の方へ目を向けようとしたが、傘を拾ってくれた女性に強く肩を握られ、阻止された。

「辞めたほうがいいですよ、もう」

 女性は据わったような目でそれだけ呟いて、傘を俺に渡すとさっさと行ってしまった。
 混乱した俺が周りを見渡すと、人集りの中に居たおじさんが無言で首を横に振っていた。やめておけ、と言わんばかりに。
 他の人に目を向けると、何人かはスマホで写真を撮ったり、遠目に見ているだけだったが、
そのうちの何人かが、同じように小さく首を横に振っている人たちが居た。
 他の人達から救急車を呼ぶか聞かれたが、俺は貧血を起こしただけだからと断って、そのまま逃げるようにその場を後にした。

 後日、Yとは連絡がつかなくなり、捜索願が出された。
 警察に色々聞かれたが、正直に話しても信じてもらえるはずもなく、あの日Yと別れた後は知らないと答えた。
 なんとなくだが理解はしている。きっとYはもう帰ってこない。
 俺に出来ることと言えば、せいぜいあの交差点に二度と近寄らないことぐらいだった。
 あの場所は何なのか、何が起きているのか、奴らは何を指差していたのか。何故俺だけが帰ってこれたのか。
 傘を拾ってくれた女性、あのおじさん。あの人達の不思議な対応も未だに意味は分からないが、彼らのように一部の人達は漠然と理解しているのだろう。
 あれを見たならば、あの場所に近づいてはいけない。不用意に近付けば助からない、ということを。
 あの交差点に何が在るのか、俺にはもう調べる勇気はなかった。

 人の多い都会では、日々同じような人とすれ違う。
 もしかして奴らはあの交差点でなくとも、常にその雑踏の中に在るのだろうか。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる