わぇおろふよ

 これは俺が社会人5年目にして初めて一人暮らしをした時の話。

 家賃を会社が八割負担してくれるので、当初は良い所に住もうと思っていたんだが、そもそもの基本給が安かったので結局築45年のアパートに決めたんだ。
 築45年のアパートとは言っても外壁を最近塗りなおしたのか、外観も古いとは感じなかったし、室内も清潔感のある綺麗な部屋だった。
 住み始めてしばらくは自炊や掃除など親に任せきりだった為、悪戦苦闘の日々が続いたが、ようやくそれらにも慣れてき始めたある日の事だ。

 いつも通り会社から帰り、テレビを見ながらくつろいでいると 「わぇおろふよ」 って音が聞こえた。それも耳元で。
 え? と思って聞こえた方を向いたが当然何にもない。
 訝しく思ったが、何もないのなら仕方ない。元来細かいことはあんまり気にしないタイプの俺だ。
 ところがこの日を境に、その音がランダムに聞こえるようになった。

 時間や曜日、日付などの法則はなく、突然耳元で 「わぇおろふよ」 って音がする。
 しかも何回も聞いている内に、この音がなんとなく声のように聞こえてきた。
 ちょっと暗いトーンでボソボソと女が話しているような感じだった。
 人ってのはそう考えてしまうと、そうとしか聞こえなくなってしまうんだよな。
 流石に怖くなってきた俺は次の日、当時付き合っていた彼女を呼んだ。
 彼女はフリーターの為、ある程度時間のコントロールが効くので平日にも関わらず来てくれた。
 それはとても嬉しかったのだが、彼女に起こった出来事を伝えても全く信じてくれなかった。
 俺以上にさばさばした性格の彼女にしてみれば、大体の事は気のせいで片付けられてしまう。
 むきになっても仕方ないし、案外本当に俺の気のせいかもしれない。初めての一人暮らしで気付かないうちにナーバスになっていたのかもしれない。
 そう思う事が出来始めて、彼女に内心感謝を伝えた。

 その後は彼女が料理を作ってくれて、一緒に映画を観た。
 そろそろ寝ようか、となり、やる事やって眠りについたんだ。
 布団に入って数十分経ったろうか。なかなか眠れない。身体は疲れているんだが、何故か眠りがやってこないんだ。
 隣では彼女からスースーと言う寝息が立ち始めている。 規則的な彼女の寝息に少しずつ落ち着いてきて、俺もだんだんとまどろみ始めた。
 何とか眠れそうだなとぼんやりした頭で考えていた時、隣の彼女がううん、と唸り声を小さく上げた。
 一瞬ビクッとしたが、別にそこまで怖がることじゃない。大分神経が過敏になっているようだ。
 だけど、この小さい唸り声がだんだんと変わってきた。

 最初は、ううん、くらいだったんだけど、それが繰り返されていくうちに変化していった。
「ううん」
「うあぁ」
「うぁむろ」
「おむぁろよ」
「おむぁおっろよ」
 みたいな感じで。 唸り声がだんだんと言葉になってきたんだ。
 しかも徐々に声の大きさも上がってきている。
ただ全体的にむにゃむにゃと喋っているので、何を言っているのかはよく分からない。
 彼女を見ると相変わらず俺に背を向ける形で横向きに寝ている。
 彼女とは何回も一緒に寝た事があるが、こんな寝言?をいう事なんて初めてだった。 何か悪夢でも見ているのだろうか。
 それはもしかしたら寝る前にあれだけ怖がっていた俺のせいかもしれない。
 表面上は気にしていない風だった彼女も、もしかしたら無意識化で俺の恐怖が伝播していたのかもしれない。

 そう思うと申し訳なく思い、一度彼女を起そうと肩に手をかけ揺さぶった。 だが彼女は起きない。
「おむぁおろす」
「○〇(彼女の名前)」
「まぁおおろよ」
「おーい、大丈夫か」
 俺がそう言った時、彼女がすごい勢いでこちらに寝返りをうった。
 彼女の顔が俺の目の前にくる。鼻と鼻がぶつかりそうになるくらいの距離だ。
 彼女の眼は見開かれていた。その眼が異常に怖かった。
 真っ暗なんだ。白目がない、とかってわけじゃないから真っ黒、という表現は似つかわしくない。 だけど、とにかく真っ暗だった。
 あんな眼をした人間を俺は初めて見た。光が一切失われた、生気を感じさせない空虚な眼だった。
 眼が合ったまま、俺は固まってしまった。そして次に凄まじい勢いで全身に鳥肌がたった。
 彼女は全くの無表情だった。
 これは彼女じゃないって咄嗟に思った。いつもの可愛らしい面影なんてどこにもない。
 パーツパーツは彼女のものだが、全くの別人に見えた。
 眼を逸らすことも出来ず10秒ほど見つめ合っていただろうか。
 そしたら彼女が喋った。無表情のまま。
 今までのむにゃむにゃした寝言のような物言いではなく、はっきりと、強い声で 「お前を殺すよ」 って。
 彼女の声だが彼女の声じゃないみたいだった。
 俺は一体今何が起こっているのか分からなくなってただ呆然と彼女の顔を見つめていた。

 不意に彼女が笑った。声に出さず顔だけで笑った。 その笑い方がとてつもなく恐ろしかった。
 無表情の彼女の右側の唇の端がゆっくり上がっていくんだ。
 まるで釣り針を引っかけてゆっくりと上に引っ張られていくように。
 右側が上がったら、次に左側も同じように。 前歯がゆっくり見え始めた。
 さらに前歯の上の歯茎までが思い切り露出した。

 そこまでだった。 気が付けば朝になっていた。
 俺は人生で初めて気絶ってやつを経験した。 彼女は既に起きていてテレビを見ていた。
 恐る恐る昨日寝言言ってたよ、と探りを入れてみるが「ほんと? 恥ずかしい」だって。
 どんな事を話していたのか聞かれたが適当に嘘をついておいた。多分あれは彼女じゃなかったから。

 その後、すぐに会社に適当な理由をつけて引っ越しを許可してもらった。
 以降、それらしい出来事は起きていない。
 しばらくして彼女とも別れた。
 数年経った時、ふと思い出してグーグルマップであのアパートを見てみたがもう取り壊されてマンションに様変わりしていた。
 色々調べてみたが幽霊だ出たという話もなく、一応自殺物件サイトでも調べてみたが全く引っかからなかった。
 あそこで起きたものは何だったのか、だからもう知る術はない。
 ただ一つだけ分かった事は、俺は毎日何かに殺すぞって囁かれ続けていたんだなって事だ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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