ランドセルを背負った男児が怖いという、ある女性から聞いた話です。
きっかけは数年前、唐突に思い出した、小学生の頃の出来事だといいます。
その日、クラブ活動を終えた彼女は友人と連れ立ち、陽が大きく傾いて薄暗くなり始めた廊下を、教室へ忘れ物を取りに戻りました。
足早に歩く廊下には、他の生徒や教師の姿はありません。
この様子では教室にも誰もいないだろうと、がさつに扉を開けながら中に入ると、予想に反し、男子生徒が一人居残っていたのだそうです。
特に仲のいい生徒ではなかったそうですが、こんな時間にどうしたのかと 一応、声をかけたのだといいます。すると。
「あー、帰ろうと思ってる」
引いた椅子へ横向きに腰掛け、背もたれに手を回す彼は、ボンヤリした様子で、そんな返事をしました。
なんとなく気味が悪いなと思った彼女は、自分の席に近づきながら 「そっか、じゃあね」と話を切ろうとしたそうです。しかし。
「帰れないんだよなー、ランドセルがなー」
「ないんだよなー、ランドセルなー」
変わらずボンヤリした様子の彼は、彼女ではなく教室の虚空に向かい、間の抜けた抑揚のない声で、そう続けたそうです。
「ランドセルなー」
「ないんだよなー」
その様子を訝しんで、あらためて彼を見ると 横向きに腰掛けた彼の背中、そこには黒いランドセルがぶら下がっていました。
「ないんだよなーどこにも」
「探したんだけどなー」
ふざけているのか……しかし何が目的で?
いよいよ気味が悪くなりだした彼女。
恐る恐る「背負ってるじゃん」と指摘しようと、彼の背中に指を伸ばそうとしたとき、不意に違和感を覚えたといいます。
彼の背負っている黒いランドセル。
どことなく普段見慣れたものと、何かが違って見えたそうです。
刻々と暗くなっていく教室の中、開きかけた口を閉じた彼女が、それに目を凝らしていると 男子生徒はゆっくりと立ち上がったのだそうです。
「ランドセルなー、なくてなー」
直立不動の姿勢を取り、また間の抜けた声でそう言った彼。
すると突然、背負っていた黒い物が落ちたのだそうです。
それは、木製の椅子の座面に鈍い音を立ててぶつかると、フローリングの床へごろりと転がりました。
そして黒い何かが、近くの机の足をキッと鳴らして止まったとき、それが、ランドセルではないことがわかりました。
人形の首だったそうです。
一抱えほどもある、おかっぱ頭をした童女の人形の頭部。
先ほどまで男子生徒の背中にへばり付いていたそれの、青白い肌に浮かぶ二つの瞳が、教室の床からジッと見つめてきたのだといいます。
「なくてなー、ランドセルなー」
思わず息を飲む彼女。
すると、直立不動の男子生徒は人形の首を指さし。
「これしかなかった」
変わらず抑揚のない声で、しかし今度はしっかりと 彼女の顔を見つめて。
「これしかなかった」
「これしかなかった」
「これしかなかった」
「これしかなかった」
「これしかなかった」
何度も何度も、そう繰り返したのだそうです。
居ても立っても居られなくなった彼女は、教室を飛び出すと 一目散に家へ逃げ帰ったのだといいます。
翌日、件の男子生徒は何食わぬ顔で教室におり、前の席の友人と話していたそうです。
身を乗り出した彼がもたれる机には、不気味な人形の首ではなく、ごくありふれた、黒いランドセルがぶら下がっていたそうです。
昨日のことを話してしまえば、また何か奇妙なことが起こるのではと、怖くなった彼女は 男子生徒に声をかけることもなく、昨日いつの間にか姿を消していた友人にも、この話を切り出すことができなかったといいます。
数年前に、この思い出を不意に思い出したのだという彼女。
当時のクラスメイトの中に、交流が続いている知人がいたので 件の男子生徒について、それとなく聞いてみることにしたそうです。
適当な都合を付けて、落ち合うことにした知人。
少し珍しかったという男子生徒の苗字を聞いても 中々ピンとは来なかったようです。しかし。
「あ、それってさ、不登校の子じゃなかった?」
「結局一回も学校来なかったよね、クラス同じになってから」
「そのまま卒業して……あれ、でも女の子じゃなかった? 多分」
その話を聞いて初めて、同じ苗字の女子生徒が 確かに彼女のクラスにいたことを思い出したそうです。
「やっぱり女の子だったよね? 不登校の子」
「男子は……覚えてないなぁ」
「同じ苗字の男女でそんなシチュエーションだったら……イジりっていうかさ」
「もっと覚えてるようなエピソード、ありそうだけどね」
視線をウロウロさせながら、記憶をたどる知人。
結局、男子生徒の方に、思い当たる節はなかったのだそうです、 一方で彼女も自分自身に、男子生徒に関する思い出が あの放課後の出来事の他、あまりにも少ないことに、急に違和感を覚えたそうです。
その後しばらくして、実家に立ち寄ったという彼女。
アルバムを引っ張り出し、小学校のクラス写真を確認してみたそうです。
すると記憶していた苗字は、登校していた頃の写真を加工したのであろう周りに比べ少し幼い顔をした、不登校であった女子生徒の写真と共に、記されていました。
そして、男子生徒の中に同じ苗字の者はなく、記憶違いかと、端から顔を眺めていきましたが、あの日、放課後の教室で人形の首を背負っていた男の子の面影は どこにも見当たらなかったのだそうです。
ただただ、不気味な思い出に拍車をかけただけのアルバムをクローゼットにしまい込む彼女。
それ以来、黒いランドセルを背負った児童を見かけるたび 背中からおかっぱ頭の、大きな人形の首が転げ落ち、それを指さす男児が「これしかなかった」と延々、唱えだすのではないかと、ひどく怖ろしく感じるのだといいます。