坂と川

 高校二年の頃だったか。
 その日、友人と遅くまで遊んで、帰りは深夜近くだった。
 帰り道、真っ直ぐな細い道を自転車で走っていた。
 道沿い左側には5m程の深さの堤防があり、堤防下には岸に雑草を繁らせた浅い川が流れている。
 自転車を漕ぎつつ覗いて見たが、水面は真っ暗で且つ覆い茂った雑草で見えず、チョロチョロという水の流れる音だけが聴こえるだけだった。
 しばらく進むと右側に閑静な住宅地に繋がる30メートル程の長さの急な上り坂が見えてきた。
 自分の家は、まだ直進した先にあるので、その坂は通らない。
 坂の途中にぼんやり人影が見えた。
 暗いのでハッキリは分からないが、近づくにつれ、ほぼ直角に腰の曲がった杖を突いた老人の様に見えた。
 住宅地の方向、つまり坂の上の方向に腰が曲がっていたので坂を登った先の家にでも帰っているのだろう。
 坂の丁度中程に外灯が一つあったが、老人は、その外灯より上、既に外灯の影響をあまり受けない場所まで登っていた。
  私は坂道に繋がる丁字路で一旦止まり、その様子を見つめた。
 大変そうなら手を貸して挙げようかと思ったのだ。なぜなら全然進んでいる様に見えなかったから。
 休み休み登っているのかも知れないが、何せ深夜なので少し心配になった。
 ポチャン……。
 坂とは反対側の川から水音が聴こえたので、反射的にそちらを見た。見たところでやはり真っ暗だった。
 岸からカエルでも飛び込んだのだろうと再び視線を老人に戻した。
 老人が坂中程の外灯の真下にいた。
 あ、動いたと思ったが、おかしいことに気付く。
 坂を降りてきている。 しかし、身体は住宅地の方を向いている。
 バックした? なんで? そう思った。
 思ったが理由が分からない。
 腕時計の時間でも見たかったから明るいところに来たとか? なんで身体を反転させずにバックして下りてきたの? 見てない間に反転して下りてきて、今は、また登ろうとしている状態だとか? いや、目を離したのは数秒に過ぎなかったはず。
 そんなに機敏に動けそうもないのに?
 老人だとは分かるが、男女の区別は分からない。
 そして、何だか違和感を感じるが、その原因も分からない。
 暫く見ていると、腰を伸ばそうするように上半身をゆっくり起し始めた。
 そして普通の立ち姿の様にまでなった時、声をあげそうになった。
 ボサボサ頭の後頭部に顔があったのだ。
 男女の区別が曖昧な老人の顔。 しかし違和感がさっきより無くなった気がする。
 後頭部に顔なんて、違和感しかないのに……。
 服だ。服を後ろ前に着ていて、まるでこっちに身体を向けているかのように見えるからだ。
 視線を下げて足元を見た。靴先がこっちを向いている。
 なるほど違和感を消す要素がここにもあった……。
 …ん? 靴って後ろ前を逆に履けるか? 左右逆になら履いたことあるけど……。
 ペダルに乗っけている自分の足を見た。
 いや絶対、足の構造的に無理だろ……。
 老人に視線を戻すと、満面の笑顔でこっちを見ていた。
 全身にブワッと鳥肌が立つ。
 腰を前に曲げてたんじゃなくて、反り返ってたの? ……ほぼ直角に腰を反らしてた?
 カツーンッ!
 老人が杖でアスファルトを強く突いた音が闇に響いた。
 そしてその場でスタスタと足踏みを始めた。
 カツン、スタスタ、カツン、スタスタ……。
 その間隔がだんだん早くなってくる。
 早くなってというか、映像を早回ししている様な不自然なスピードで、もはや杖や足がブレて見える。
 これは今すぐこの場所から逃げる案件だ。
 そう思った瞬間、猛スピードで老人が坂を下って来た。
 ヤバい! ヤバい! ヤバい!
 慌てて自転車を漕ごうとしてペダルを上手く踏めず滑った。
 カラカラと空回りするペダルをもう一度強く踏みつけて回転を止め、そのまま踏み込んだ。
 勢いよく自転車が走り出し、目一杯の立ち漕ぎで真っ直ぐな道を暴走した。
 バシャーン!
 背後から、何か大きいものを川に投げ入れたみたいな音が聴こえたと思ったら、バシャバシャと川の中を走っている様な音が自転車を追ってくる。
 背後を確認する間も無く、ただひたすら漕ぎ続けた。
 激しい恐怖と運動で心臓が爆発しそうだったが、川を走る音は更に迫ってきた。
 前方に交差点が見えてきた。車通りも人通りも多い道路だ。
 早く明るく賑やかな場所に行きたい!
「キャキャキャキャキャ」
 すぐ背後から人の笑い声とも、動物か鳥の鳴き声とも思えるような声が聴こえた。
 何か固いもので自転車の後部をガンガンと叩く音と振動が伝わってくる。
 更に後ろから引っ張られてるみたいにペダルが急激に重くなってきた。
 もうやめてくれ!! と、最後の力を振り絞って、ようやく交差点に出た。
 ちょうど青信号だったので一気に渡った。
 渡り切って停車し、肩で息をしながら周りを見渡すと、歩道には人が居て、道には車が走っている。
 恐る恐る背後も確認したが、特に何も見えなかった。
 自分が来た道と交差する道路に短い橋が架かっていて、その下にはさっきの川が流れている。
 ゾクッとして、急いで川から離れて家に向かう。
 幸い、ここから家までは、もう暗く寂しい道は無いし川も無い。
 ただ、ずっと背後は気になって何度も確認した。
 自宅に到着し、自転車を停め、後部を調べると、後輪の泥除けがボコボコに凹んでいて、タイヤは、ぬかるみを走ったみたいに泥々に汚れていた。
 その日以降、たとえ遠回りしてでも、暗くなった時間に、あの道を通ることをやめた。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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