川島さんは幼い頃、タイにあるコンドミニアムに住んでいた時期がある。
ある日、バンコクの青山とも言われているトンローの日本食レストランに父が連れて行ってくれた帰り道、川島さん親子は目出し帽を被った男に襲われ、持っていた財布や時計、携帯電話、眼鏡などを盗られた事があるのだという。
しかし川島さんの父親は慌てた様子も無く、90度に折り曲げた親指に人差し指を乗せ作った円の中に唇を押し付けると、何かを呟いた。
何と言ったかハッキリ分からなかったが、父親の首の付け根から大小様々な大きさの黒いミミズのようなものがウネウネと這い出てくるのが見えた。
ミミズはキョロキョロと辺りを見回すとプツンと頭を落とし、ラチャプルックの黄色い花が映える青空の下を放射線状に広がっていった。
それから暫くして、強盗犯の死体が水路で見つかった事をアヤさん(家政婦)から聞いた。
以来、父親の首の付け根からミミズが出てくる事は1度もなかったが、最近、4歳になる息子がやたらと首が痒い痒いというのだという。
不安に思った川島さんは何度も病院に連れて行ったが、アトピーや虫刺されなどはなく健康状態も良好であった。
4歳になる息子、悠人くんは最近お絵描きが大好きだ。
よく白い画用紙一面に赤い線状のものを無数に描く。
「それはなぁに?」と聞くと「じぃじ」という。
悪い事をした人の頭の中にミミズが大量に入っていくところだというのだ。
川島さんはそれを見て『稲生物怪録』のミミズの絵を思い出した。
白く丸い塊から赤い線状のものが伸び出ている絵だ。
川島さんが父の葬儀で見た父の姿にそっくりだったのである。
『ミミズ花火』と名付けられたその絵を描いた事を、悠人くんは覚えていない。
その絵を描いた事だけ、覚えていないのだ。
「父は温和な人でした。僕も息子を守る為なら…なんだってすると思います」
川島さんは酷く悲しそうな顔をすると、ポリポリと首の付け根を掻いた。
ペトリコールの漂う空の向こうに雷鳴が酷く悲しく響いていた。