お泊り会

 私は神奈川県Y市の都市部で生まれ育ちました。
 幼少期通っていた幼稚園は、ひとつの寺院の運営する幼稚園でした。
 よく覚えているのは園より寺院がメインともいえるような幼稚園だったことで、園の門をくぐるとまず正面に大きな寺院があり、園舎や園庭はその横におまけでついているような配置になっていました。
 寺院色が強いこともあり、順番に園児たちがお釈迦様に水をかけて敬意を示すという行事が定期的にあったり、時々お寺の住職さんが園舎に立ち寄って、園児たちに何かためになる話をしていくといった事がよくあったのを覚えています。
 優しい住職さんのことを、園児たちは住職先生と呼んで慕っていました。

 そんな私の幼稚園のメインイベントの一つは、年長の学年だけが参加する、毎年夏の幼稚園でのお泊り会でした。
 家に帰れば親と一緒の部屋でいつも寝ているような年齢の私たちにとって、親と離れて一晩外で過ごすというのはそれはそれは大きな冒険に感じました。
 いつもは帰宅する午後に幼稚園バスで幼稚園に到着し、しばらく園庭で遊んだ後、先生が準備してくれたカレーを皆でわいわいと楽しみ、その後スイカ割りがあって甘いスイカを頬張りました。
 外はすでに夜の帳が下りており、私たちは皆、新鮮な夜の幼稚園に興奮気味だったのを覚えています。
 園舎の屋上にあるプールに少し温かめのお湯を張って簡単にお風呂を済ませた後、お寺の住職さんがみんなに向けて紙芝居をしてくれる、ということになっていました。
 普段はそういったお話をしてくれるのは先生たちなのですが、この度は住職先生がしてくれるということで、私たちの期待も高まりました。
 しかし紙芝居が始まると、普段先生たちが読んでくれるような紙芝居と一味違うことにすぐに気が付きました。
 わくわく、楽しいといった類のお話ではなく、明らかに不穏なストーリーだったからです。
 今となっては話の骨子しか覚えていないのですが、内容はこんな感じでした。

 昔々あるところに、一人の旅人がおりました。
 彼は長旅の途中で、一日の旅の後その日の宿を探していましたが、集落のどこの家もよそ者には厳しく、泊めてもらうことはできませんでした。
 途方に暮れていたところに、一軒の古いお寺を見つけます。事情を話すと住職さんは快く彼を泊めることに同意してくれました。
 しかし、旅人に一つだけこう忠告しました。
「このあたりでは夜によく老婆の姿をした妖怪が出る。集落で見知らぬ人を泊めたがらないのもそのせいだ。夜も更けたころ、この妖怪は外に出ている人に襲い掛かり、耳から脳みそを吸って殺してしまう。だから今夜は決して外に出ないように」と。
 ……そのあたりで突然紙芝居は終わりました。
 住職先生は私たちに「今夜ここにもおばあさんの姿をした妖怪が出るかもしれないから、目が覚めても勝手に園舎の外に出たらいけないぞぉ~」と言って話を終えました。
 物心ついて間もない年齢の私たち園児は、特に本気で怖がることもなく、わーきゃー笑いながら耳を吸う妖怪の真似をしてふざけていたのを覚えています。
 今思えば、限られた先生の数で子どもたちの面倒を見るこのお泊り会の夜、面倒を増やさないように怖い話で子どもたちに釘を刺しただけだったのかもしれません。
 ただ当時の私は、話を終えた時の住職先生が、自分たちの話で子どもたちが楽しそうに騒ぐのを見てもクスリとも笑っていないのに気づき、それを不思議に思っていました。

 間もなく就寝の時間になりました。
 夜まで好きなだけはしゃいだ私たちは、皆すぐに眠りにつきました。
 しかし、私は深夜トイレに目を覚ましてしまいました。
 眠い目をこすりながら辺りを見回すと、私の大好きだった担任のY先生が部屋の隅に座っているのが目に留まりました。
 どうやら、先生たちは交代で仮眠を取っているようで、その時間帯はちょうど私の担任だった先生が、園児たちの寝ている部屋の端に座って、私たちの様子を見守っていました。
 先生はすぐに私に気づき、「さとしくんどうしたの?」と私に尋ねました。
「Y先生、トイレ行きたくなっちゃった」と言うと、先生は私と一緒にトイレまで付いてきてくれることになりました。
 2階の部屋から、ほの暗い廊下を抜けて階段をゆっくり降り、1階にあるトイレまで向かう間、怖がりの私はずっとY先生の手をぎゅっと握っていました。
 明かりの落ちた園舎は普段とは全く違う雰囲気を纏っていて、階段を下りたらどこか知らない世界が待っているのではないか、私はそんな不安さえ感じました。
 無事に1階のトイレに着き、個室に入ります。
 幼稚園のトイレは、先生がトイレの間も外から子どもたちを見守れるように、個室を区切る壁やドアがかなり低くなっています。
 私は当時、周りの友達より頭一つ分身長が高かったため、トイレの個室に入っても立つと頭がドアからはみ出している、そんな感じでした。
 座って用を足した後、立ち上がって個室から出ようとした矢先です。
(わっ……!)
 私はトイレの向こう、1つの部屋を挟んでそのさらに先にある、真っ暗な園庭に何かを見ました。
 ぼさぼさの髪をした女の人が、園舎の窓に手を当てて園舎の中を「じーーーーーっ」と見ているのです。
 園庭を望む窓まで、トイレからはだいぶ距離があるはずなのですが、その女性の姿は不思議なほどはっきりと目に、というより頭に直接入ってきます。
 ぼさぼさの髪の毛には、大量の白髪が混じっている事に気づきました。
 薄汚れて匂いまで伝わってきそうな灰色の着物の裾は、すでに擦り切れてボロボロになっています。
 私はその老婆のしわがれた、そして小さいながらも邪悪さに満ちた声さえ頭に入ってきました。
「奥か。上か。やわらかい味はどこにある」
 私は目の前の光景の衝撃の大きさに、ただ真っすぐに立ち呆然としていたのですが、間もなく言い知れない恐怖が襲ってきました。
(あのおばあさんは絶対私に気づいている、絶対こっちに来る……!)
 余りの恐ろしさに手足がきゅっと冷たくなるのを感じました。
 私は、体も、指さえ動かすことができない中、そばにいる先生に「Y先生あれうしろ」と精一杯のか細い声で言いました。
 先生は「何?」といった後、私が自分の背後に目を向けているのに気づき、後ろを振り返りましたが、しばらく何も言いませんでした。
 先生が黙っているのでさらに怖くなった私は、先生の手をさらにぎゅっと強く握りました。
 間もなく、先生はゆっくりとこちらに向き直って、私の目線までしゃがみ、優しい顔でこう言いました。
「さとしくん、怖いかもしれないけど、ここからさっきのみんなが寝ている部屋まで一人で戻れるかな?」
 優しくも真剣な眼差しでそう言うY先生に、私は黙ってうなずきました。
 そして、泣きそうになりながら先ほど寝ていた部屋に一人で戻り、また眠りに就きました。

 話はこれで終わりです。
 翌朝、Y先生にさようならを言うはずでしたが、先生をどこにも見つけることができず、そのまま帰宅しました。
 当時の私は、あの夜に見たものはきっと、住職先生の怖い話を聞いたせいで見た夢か何かだろうと思っていました。
 そして、そのこともじきに忘れてしまいました。
 夏休みが終わって幼稚園が再開した矢先、担任の先生が新しい先生に代わっていました。
 Y先生はしばらくお休みを取ることになっているとのことです。
 新しい担任の先生は、「Y先生はもうすぐ赤ちゃんが生まれるんだよ~」とだけ言いましたが、その後、Y先生のことに触れることは全くありませんでした。
 そしてついにY先生が戻ってくることがないまま、翌春、私は幼稚園を卒園しました。
 卒園アルバムにも、なぜかY先生の名前と顔はありませんでした。
 私の担任だったY先生は、とても律義な先生で、毎年のお正月にはクラス全員の子どもたちに年賀状を送ってくれていました。
 でも、休職して初めての年越しには、Y先生からの年賀状は届きませんでした。
 でも小学校に入った翌年の年越し、1年越しにY先生から年賀状が届きました。
 私は大好きなY先生からのひさしぶりの便りに胸が高まりました。
 差出人は確かにY先生でした。でも、そこには今までのY先生の年賀状とは似ても似つかない、子どもの殴り書きのようなぐちゃぐちゃの汚いひらがなでこう書いてありました「つぎこそえんていであおうねまってるよ」。
 それが、Y先生からの最後の便りでした。
 聞いた話では、翌年以降今に至るまで、私のいた幼稚園では夏のお泊り会が組まれることはなくなったようです。

 大人になった今思います。私が見たあれは夢なんかではありませんでした。
 Y先生は私の身を守ろうとしてくれたに違いありません。
 そしてその結果、あの時Y先生の身に何があったのでしょうか。真相は今でもわかりません。

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