托鉢僧

 話は今からもう10年位前、私が大学生だった頃に遡ります。
 当時私の母方の祖父母はまだ健在で、年に2回、長期休暇の時期に帰省するのが私の家族の習慣でした。

 その年の夏も、私たち家族は関東から遠く離れたY県にある二人の家へと帰省したのですが、父と姉は急な仕事で休みが取れず、私と母の二人だけで祖父母を訪ねました。
 当時祖父、つまりじいちゃんはすでに80台後半、祖母、ばあちゃんも85歳前後だったのですが、二人とも心身ともに至って健康で、じいちゃんは毎朝の散歩や庭の土いじり、ばあちゃんは裁縫に精を出していました。
 母が久しぶりの親子の会話を楽しんでいる間、私は特にやることもなく、スマホでゲームをしながら暇をつぶしていたのを覚えています。
 そんな滞在中のある午後、午後といっても夕方近くのことです。
 私たちは皆家の中にいたのですが、「ガラガラガラ」と玄関の引き戸が開く音がしました。
 田んぼに囲まれた片田舎ですから、日中は玄関の戸にカギをかけていないことがほとんどです。
 それで、近所の人が用事で訪れる時など戸をそのまま開けることもあり、それ自体は別に不審なことではありません。
 でも、普通は「〇〇さ~ん、野菜もって来たで~」とか何とか続いて誰かの声が聞こえてくるものですが、戸が開いたっきり何の音もしません。
 私たちは顔を見合わせて「なんだろうね?」と不思議がっていたのですが、間もなくじいちゃんが様子を見に玄関に向かいました。暇を持て余していた私もその後についていきました。
 玄関には、一人の僧侶が立っていました。
 黒い袈裟に身を包み、笠を深く被っていて顔はよく見えません。
 手には小さなカゴのようなものを持っています。
 それを見てじいちゃんが「托鉢さまじゃった」と奥の家族に向かって言い、居間へと何かを取りに戻りました。
 私は当時名前を知らず「たくはつ???」と頭の中でつぶやいたのですが、時々町でも見る、どこかに立ってお布施とかをもらっているお坊さんなんだろうな、という想像は付きました。
 じいちゃんはお坊さんに渡すお金か何かを取りに行ったのでしょう。
 じいちゃんが戻ってくるまでの間、私は玄関から少し離れた階段に座ってその托鉢層を見ていました。
 同情してもらいお布施をもらうためなのかもしれませんが、袈裟も笠も非常に古びていて、さらには履いている足袋なんかは手作りのようにさえ見えます。
(手の凝った衣装だな……)と思っていた矢先、じいちゃんが戻ってきてお坊さんのカゴに幾らかのお金を包んだ封筒をポンと入れました。
 お坊さんはそれを見届けると、カゴを一旦脇に置き、短いお経のようなものを2,3度唱えました。
 そしてまたカゴを手に取ると、静かに去っていきました。
「托鉢さまがうちに来るなんて珍しいもんじゃ」とじいちゃんは言っていました。
 私は、そのお坊さんの唱えたお経が、よく聞く「南無阿弥陀仏」とか「南妙法蓮華経」ではなかったので、托鉢用のお経があるのかな、などと考えていました。
「あっ、托鉢さま数珠を忘れていきおった」とじいちゃんが言いました。
 確かに玄関横の棚に、先ほどのお坊さんが持っていたのであろう数珠が置いてありました。
「今なら間に合うじゃろ、ちょっと渡してくる」と言ってじいちゃんは家を出ていきました。
 じいちゃんはその日、それっきり帰ってきませんでした。

 夜が深くなる前、私たちは近隣にある幾つかの寺院を訪ねそのことについて聞いて回ったのですが、どの寺院も「私たちのところは托鉢はやってない」という答えでした。
 警察にも捜索願を出し、翌日から警察も周辺の捜索、さらには他の寺院への聞き込みを行ってくれたのですが、托鉢をしているという寺院はどこにも無く、じいちゃんの行方も全く分かりませんでした。
 最悪の事態も想定していた3日目の朝、じいちゃんは見つかりました。
 3つも離れた市の幹線道路沿いのバス停で、裸足で座っていた所を警察に保護されたのです。
 一体どうやってそんな遠くまで移動できたのか、どうして靴がないのか。
 さらに警察が言うには、よほど強いショックを受けたのか失踪中の記憶が無くなっていて、詳しい経緯は分からないということでした。
 特にケガなどがなかったため、じいちゃんは間もなく自宅に送り届けられました。
 しかしその様子は明らかに変でした。
 認知が一気に進んだ人のように、最近の記憶が全く抜け落ちており、孫である私も認識できなくなっていました。
 さらに足腰も急に弱くなったように見受けられました。
 大事には至らなかったため、私たちは間もなく帰省からの帰路に着きました。

 しかしその日を境に、じいちゃんは急に衰弱していき、数週間後には入院、そして年が明けるのを待たずに亡くなりました。
 再びY県に飛んだ私ですが、次の帰省がじいちゃんの葬儀になるとは夢にも思わず、その事実をまだ受け入れられないまま呆然としていました。
 祖父母の家で親族や友人が宴会をしている間に、気になることがあった私は、お通夜や葬儀に参加してくれた僧侶のいる近くの寺院を訪ねました。
「少し前に私たちが托鉢僧について聞き回っていたのを覚えておられると思うのですが、その事で気になることがあるんです」と言うと、その僧侶は「どこから来た僧か分かったんですか?」と言いました。
「いえ。でも気になるのは、その僧が帰り際唱えていった念仏? 呪文? のことなんです」と私が言うと、僧侶は真剣な顔になり、「どんなものだったか覚えていますか?」と私に尋ねました。
「はい、それがずっと頭に残っているんです。確か、ノウマクサーマ」まで言ったところで「やめなさい!!」と僧侶がすごい剣幕で怒鳴りました。
 私が驚いて目を丸くしていると、「あなたとおじいさまが見たそれは托鉢僧では無いかもしれない」と僧侶は言いました。
 今私が口に仕掛けた呪文は、托鉢僧が唱えるような類のものではなく、むしろ、調伏祈祷といって悪霊や敵を倒す際に使われるようなものだ、ということです。
 実際に戦国時代や、現代でも第二次世界大戦などでは、敵の打倒のために僧侶が本気でそうした祈祷をしていたのだそう。
 そしてなぜそんなものを私たちに直接唱えたのか、わけが分からない、と僧侶は言います。
「あなたが見たものはこの世のものではなかったかもしれない。おじいさまは大変不幸な目に遭ってしまった。他に誰がこの祈祷を聞いていましたか」と僧侶は私に尋ねました。
 その場にいたのはあとは私だけだと言うと「この祈祷は、あなたが口にするのはもってのほか、さらには決して思い出さないように。そうしないとどんな事になるか分かりません。このことは忘れなさい。いいですね」と僧侶は真剣な顔で私に命じました。

 それから数年、私や周辺に特に変わったことは何もなく、このことも半ば忘れかけていました。
 しかし、今から数年前、テレビでとある怪談番組を見ていた私は、その中に出てくる呪文が、私が聞いたものと非常によく似ていることに気づいてしまいました。
 慌ててテレビのチャンネルを変えたのですが、頭の中ではあの時の僧侶と、あの呪文が繰り返されています。
 私は頭を鈍らせるために強めのウイスキーを煽り、急いで床に就きました。しかし、夢にあの僧が出てきました。
 彼の周辺の風景を見るに、明らかに現代ではなく過去、戦国時代か何かのように思われます。
 目の前に立つあの僧侶は、例の呪文をぶつぶつと唱え、手に持っている鈴を「リン」と鳴らしました。
 そこで目が覚めました。
 いやな汗でびっしょりの中、スマホで時間を確認すると、夜遅くに母からの不在着信が来ていることに気が付きました。
 ばあちゃんが急死しました。

 それ以来、あの呪文のことは決して思い出さないようにしています。
「ノウマクサーマンダ―バーザラダンカン」
 昨晩、夢にまたあの托鉢僧が出てきて、はっきりとそう言いました。
 一体あの托鉢僧は、この現世で何をしようとしているのでしょうか。
 せめてこの話を今聞いているあなたと分かち合って、私の身に降りかかるものを軽くしたいのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる