有料老人ホームで事務関係の仕事をしている伊藤さんは、
施設玄関の自動ドアの開く音に怯えていた。
その施設は2階建てで、事務室は1階の入り口正面に設置されており、
職員は来設者があると対応することになっている。
仕事の殆どを事務室で行っている伊藤さんは、
50代だが必然的に受付嬢的な存在となっていた。
自動ドアはコンビニと同じようなセンサー式で、
人やモノを感知すると開く仕組みになっているのだが、
同時にピンポーンピンポーンというチャイムが鳴るようにもなっていた。
その為、ちょっと席を外している場合や、事務作業に集中している場合でも、
誰かが出入りすれば、気付くようになっている。
勿論それは、来設者に直ぐに気付く為でもあったが、
1番の目的は、入居者である利用者が、
施設から勝手に出て仕舞わない為の防犯的な役割が大きかった。
現在の特別養護老人ホームは、
基本65歳以上の要介護3〜5の認定を受けた方が利用できる事になっているが、
実際のところ、1番手がかかり、目が離せないのは、
要介護1〜2くらいの認知症の人である。
認知症の症状はあるものの、運動機能は保たれている状態であることが多く、
1人で自宅を出たまま道に迷い戻って来ない徘徊老人や、
食事を食べても、 「ご飯は、まだか?」としつこく何度も聞いてくる老人が大抵それである。
そして伊藤さんが働く有料老人ホームには、
要介護1〜2の認知症の利用者が多い。
その様な利用者はほぼ皆「家に帰りたい」と、強い帰宅願望を持って過ごしていた。
大山さんも、そんな要介護2の男性利用者だった。
奥さんは健在だが、 「自宅では診れない」と仰っしゃり、ご主人だけが入居していた。
奥さんがご主人と一緒に生活することを断念するだけあって、
大山さんは問題行動の多い人であった。
介護拒否、入浴拒否、トイレ以外での放尿、病院への受診拒否、検査拒否など、
介護士達も手を焼く存在で、それに加えて強い帰宅願望を持っていた。
ほぼ毎日、午後4時頃になると、大山さんはエレベーターに乗って1階へ下りてくる。
そして何も言わずに玄関へと向かうのだ。
「大山さんが1階に来ました。お迎えお願いします」
伊藤さんは大山さんの姿を見かけるとPHSで連絡を入れるが、
介護士も他の入居者の介助などしていて、直ぐに応援に来てくれるとは限らない。
「どうかされましたか?」
伊藤さんは事務室のカウンター越しに、大山さんへ声をかける。
「…………」
大山さんは何も応えず、伊藤さんを無視。何時もの反応だ。
前傾姿勢のせかせかとした足取りで、黙って玄関へと向かう。
伊藤さんは事務所から出て、大山さんを追いかける。
「どこへ行かれるんですか?」
「うち、かえる」
ここでやっと、大山さんは言葉を発する。
自動ドアが開き、同時にピンポーンピンポーンとチャイムが鳴る。
大山さんは伊藤さんには目もくれず、玄関を出て前庭を歩く。
「奥さんは、まだお迎えに来てないです。だから一旦戻りましょう」と、伊藤さんは声をかける。
何時ものお決まりの台詞だ。
奥さんが大山さんを迎えに来る予定などない。
それどころか入居依頼、大山さんは1度も自宅に帰った事はなかった。
「…………」
大山さんは伊藤さんの声には無反応のまま黙々と歩くが、
門を出て道路に辿り着くと立ち止まる。
認知症を患っている大山さんは、もう自宅が何処に在るのかも分からなくなっており、
道路まで出たはいいが、右に行けば良いのか、左に行けば良いのか、
全く判断が付かず、その先には行けなくなってしまうのだった。
そこで伊藤さんは、もう1度大山さんに声をかける。
「ね、一旦戻りましょう。もう直ぐ、お夕食ですよ」
「……うん…………」
恐怖とも不安とも言えない虚ろな表情の大山さんは、
ここでようやく伊藤さんの言葉に頷き、回れ右をすると、
また前傾姿勢で建物内へと戻り、迎えに来た介護士と共に居室へと戻るのだった。
今ではだいぶ慣れてはきたが、大山さんは入居間もない頃、
伊藤さんが声をかけただけで、 「うるさいっ!」と鬼の形相で怒鳴り、
手を上げてきた事があった。
寸前のところで身をかわし、暴力を受ける事は避けられたが、
いくら相手が認知症の高齢者であっても、女性の伊藤さんにとってはショックな出来事だった。
それ以来伊藤さんにとっては、大山さんは怖い存在となり、
その後は大山さんが1階に下りてくると、
直ぐ様応援を呼び対応するようにしていた。
それでも段々と大山さんも施設の生活にそれなりに慣れ、
伊藤さんも大山さんへの扱いに慣れてきて、
なんとか1人でも対処出来るようにはなったのだが、
大山さんに対する恐怖心は消えることはなかった。
施設で暮らす認知症の高齢者の機能低下は著しい。
独歩で入居した人が、杖を使うようになり、
次にシルバーカーで歩いていたかと思うと、直に車椅子に座っている。
そんな入居者を何人も見た。
数年、中には数カ月の間に、どんどん低下して行く人もいる。
大山さんの場合、運動機能は維持されていたが、認知機能の低下が著しかった。
毎日お決まりの、帰宅願望からくる夕方の離設未遂も、
最初の内は門の外まで出て行っていたが、そのうち門から出られなくなり、
施設玄関から門までの前庭の途中で立ち止まるようになったと思ったら、
とうとう玄関を出た所から先には進めなくなった。
そしてそうなるまでには、然程の歳月は要しなかった。
元々無口な人ではあったが、更に口数が少なくなり、表情も乏しくなっていった。
大山さんの奥さんは週に1回位の割合で面会に訪れ、
一緒に果物やお菓子等を食べて過ごし、1時間程で帰るのがお決まりだった。
ある日、面会を終え、帰ろうとする奥さんを大山さんが追って来た。
そして自動ドアを出た玄関先で、奥さんに何かを訴えている。
「貴方は此処に居てください。家には帰れません!」
奥さんの諭すような声が聞こえた。
そして大山さんに背を向けると足速に歩き出した。
その後ろ姿を見送っていた大山さんの握っていた拳がワナワナと震えているのが分かった。
「もうリコンだ!わかれてやる!」
大山さんの怒鳴り声が、事務室まで聞こえてきた。
その声は、前庭を歩く奥さんにも聞こえた筈だが、
奥さんは振り返る素振りも見せずに、門の外へと消えていった。
大山さんは暫くその場に立ち尽くしていたが、追ってきた介護士に促され、
建物の中へトボトボとした足取りで入ってきた。
その時の大山さんの顔は、怒りでも悔しさでもなく、悲しみに打ち拉がれた、
そんな表情をしていたのを伊藤さんは見ていた。
懇願を聞き入れず背を向けた妻への恨みや憎しみよりも、
1人では何も出来なくなってしまった自分自身に対する絶望と悲しみ、
そんな想いだったのではないかと、伊藤さんはその表情から想像した。
「大山さん、大丈夫かしら?」
「大丈夫大丈夫。認知症だから、直ぐに忘れるよ」
気に掛ける伊藤さんに、介護士の1人は言ったが、
なんとその夜、大山さんは亡くなって仕舞ったのだった。
死因は自殺。
ベッド柵にズボンのベルトを掛けて、首を吊って亡くなっていたところを、
夜勤の介護士が午後8時の巡回で発見した。
後日、荷物の整理と退去手続きに訪れた大山さんの奥さんは、
「まあ、仕方がありませんわ」と、言っただけだった。
そして大山さんが亡くなって1週間が過ぎた頃、
夕方になると誰も居ない玄関の自動ドアのチャイムが勝手になり、
開いたり閉じたりする現象が起きるようになった。
業者を呼んで点検して貰ったが異常は見つからない。
「四十九日までは、魂は現世に留まっているというから、
それが過ぎれば治まるんじゃない?」
気味悪がる伊藤さんを慰めるように同僚は言ったが、
大山さんの四十九日が過ぎても、その現象は続いた。
しかし慣れというものは恐ろしいもので、毎日同じ事が繰り返される内に、
伊藤さんは恐怖心も薄れ、自動ドアが勝手に開くのを見ると、
もうそんな時間かぁなどと、鳩時計のような感覚で捉えるようになっていった。
そんなある日、伊藤さんは遅番で、事務室で1人残って仕事をしていた。
午後8時。施設内に残っている従業員は、伊藤さんの他には泊まりの夜勤者のみ。
遅番は最後に1階部分の共有スペースの電灯を常夜灯に切り替え、
戸締りを確認する事になっている。
伊藤さんはそれらの仕事を全て終えると、帰り支度を整え、
正面玄関の自動ドアの電源を切り、手動でドアを開けて外に出ると、
外側からドアに鍵を掛けた。
それが遅番の最後の仕事だった。
伊藤さんはドアの鍵がしっかり掛けられている事を確認すると、
クルリと向きを変えて門に向かって歩き出した。
ところが数歩足を進めたところで、
いつも上着のポケットに入れている筈のスマホが無いことに気付く。
立ち止まり、鞄の中にも手を入れて弄り、かなりしっかり探してみたが無い。
「やだぁ、デスクに置いてきたかな?」
50代という年齢ではあるが、独身独り暮らしの伊藤さんにとっても、
スマホは欠かせないアイテムの1つである。
面倒ではあるが、引き返して取ってこよう。
伊藤さんは再びクルリと向きを変え、玄関の方を向いた。
「ひゃっ!」
伊藤さんは妙な悲鳴を上げて、その場に凍りついた。
ガラス張りの自動ドアの向こう側に老人が1人、こちらを向いて立っていたのだ。
裸足にサンダル履き、スラックスパンツ、
ネルシャツとニットのベスト姿のその老人は、なんと自殺したあの大山さんだった。
伊藤さんは怖くなり、その場から逃げ出したいと思ったが、
体が固まったままピクリとも動かない。
見たくなくとも目を閉じる事も出来ず、大山さんから目を離す事が出来ない。
薄暗い常夜灯に照らされた大山さんには色が無く、
全体的にぼんやりとした灰色だった。
表情は暗く、絶望と悲しみが入り混じった、伊藤さんが最後に見たあの時のそれだった。
そしてその目には涙がいっぱいで、決壊寸前のダムのように、
ちょっとした刺激で溢れ出そうだった。
次の瞬間、伊藤さんの両目から、大粒の涙がぽろりと落ちた。
「え、なんで?」
伊藤さんは思い掛けない出来事に驚き、手で頬を流れる涙を拭った。
悲しいわけでも、どこかが痛いわけでもない。
自分の意思とは関係なく、何故か涙だけが流れたのだ。
全く訳が分からなかったが、その瞬間から体が自由に動かせるようになり、
更に何時の間にか大山さんの姿も消えていた。
兎に角恐怖しかなかった伊藤さんは、その場からバタバタと走って前庭を駆け抜け、
施設の門を出ると、1番近くのコンビニへ飛び込んだ。
店内は明るく、数人の客が商品を選んだり、雑誌を立ち読みしたりしている。
そんな日常的な光景を目にして、伊藤さんは先程の出来事が、
一瞬で夢の中の事のような気分にもなった。
しかしそれでも、また再び施設に戻り、
デスクに置いてきたであろうスマホを取りに行くことは、とてもじゃないが出来そうになかった。
伊藤さんは息が整ったところで、気持ちを落ち着けようと温かい飲み物を買う事にした。
甘そうな缶コーヒーを1本取るとレジに行き、財布を取り出すために鞄に手を入れた。
すると手に馴染みのある硬い物が当たった。
「ええっ!」
伊藤さんはそれを鞄から取り出すと、思わず声を上げて仕舞い、
目の前の店員がちょっと変な顔をした。
伊藤さんの手には、なんとスマホが握られていたのだった。
その後も午後4時に起こる不思議な現象は続いたが、
大山さんの一周忌が過ぎた頃、自動ドアの誤作動は何時の間にか無くなっていた。
おわり