秋刀魚ノ怪

 これは作者コオリノの、亡き母が体験したお話です。

 看護婦だった母は、中途採用でとある外交員の仕事に転職したそうです。
 新しい職場に新生活、そんな目まぐるしい日常の中、母はとある事に悩まされていたそうです。
 毎夜寝室に現れる生霊……。 寝苦しく目を覚ますと、人影が部屋の中を過ぎり、母は飛び起きたそうです。
 一度は警察や大家にも相談したそうですが、やがてそれが生霊かもしれないと気付き始めた頃、相談する事自体諦めたそうです。
 なぜそれが生霊かもしれないと馬鹿げた考えに至ったのか、元々昔から霊感のある人だったのもあるのですが(本人は無自覚)、それは毎夜現れる謎の人影に起因していました。

 始めの頃こそ部屋を横切る人影でしたが、次第にその姿形は鮮明さを帯びてきて、やがてそれがよく知る人とそっくりだと気が付いたそうです。
 職場の男性上司のTさん……。 その姿に瓜二つだったそうです。
 Tさんはとても良い人なのですがどこか頼りなく情けないといった印象、よく言えば良い人、悪く言えばうだつの上がらない人だったそうです。
 しかもそんなTさんに、母は何かとデートに誘われたりと言い寄られていたそうで……。
 仕事の忙しさ等もあり当時ストレスが溜まっていた母は、真夜中、遂にTさんの幻影に目覚まし時計を投げ付け、当然命中する訳もなく窓ガラスをぶち破り大家に大目玉を食らったとか。

 夏も終わりを告、肌寒さに秋を感じる様になったある日の事でした。
 仕事帰り、買い物をしていると馴染みの魚屋さんから新鮮な秋刀魚を勧められ買って行ったそうです。
 明日から職場が変わって初めての連休、しかも母は秋刀魚に目が無く、今夜は秋刀魚を摘みに一杯やろうと楽しみにしながら帰ったそうです。
 家に帰り早速支度に取り掛かります。 しかしそこで母は何を思ったか、どうせ食べるなら七輪で美味しく焼いて食べたいと思いたち、押入れにしまっていた七輪を取り出し、台所で焼き始めたそうです。
 日々忙しく、なおかつ毎夜寝不足気味な生活、こんなにゆっくりと食事を作るのも久々で、母は安堵してついウトウトとしながら七輪を団扇で扇いでいたそうです。
 さて、ここまで話せば感の言い方なら気付きますよね。 ええ、空気中に大量の煙が停滞しなおかつ部屋の酸素を燃焼し続けるとどうなるか……。
 気が着くと、母はキッチンの床に倒れていたそうです。 二酸化炭素中毒──激しい目眩と頭痛に吐き気。
 母は部屋まで何とか這いずると隅に置いてある電話の近くまで行ったそうですが、立ち上がることもできずその場でゴロンと仰向けになったそうです。
 虚ろな視界、ああ、自分はここで死ぬのだとそう感じた時でした。

 窓ガラスの前、僅かに開く視界の隅に、あの人影が……。 Tさんです。
 こんな時まで……。 母はだんだんと腹が煮えくり返ったそうです。
 誰のせいでこうなったのかと憎々しげにそのTさんの幻影を睨みつけたとか。
 まあ主に部屋で七輪を使用するという暴挙に出た母が一番悪いと思いますが。
 兎も角、母は一矢報いたいと、振り絞る力で投げたそうです。 アレを……そう目覚まし時計です。
 もちろんTさんには当たらなかったそうです。 時計は虚しく空を切り、そのまま張り替えられたばかりの窓ガラスに激突。
 見事にガラスを粉砕し、一階で水やりをしていた大家さんの盆栽の上に落ちたそうです。

 その後、何事かと察した大家さんに発見された母は、救急車で搬送され事なきを得たそうです。
 警察の供述に「どうしても秋刀魚を七輪で食べたかった」と話した母は、取り囲む警官達に最後まで呆れた顔をされたそうです。
 暫く仕事を休み復帰した母は、職場でTさんに泣きながら出迎えられました。
 休んでいた間の仕事の世話など全てTさんが肩代わりをしてくれていたそうで、笑顔でお帰りなさいと言ってくれたTさんに対し母は、 《二度も時計を投げつけてごめんなさい、それと助けてくれてありがとう》と、心の中で言ったそうです。

 以上が、私の母が体験した生霊に纏わるお話でした。
 因みにこのTさんこそ、今は亡き私の父でございます。 おしまい。

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