ひとつ、ふたつ

 小学生の頃。
 父との死別で母子家庭だった兄と私は、母が心の病気になったことで、母の実家のある某県に移住した。
 兄は当時小学5年生、私は3年生だった。
 話の便宜上、仮にだが、名前を兄・ユウヤと、私・サエとしておく。

 夏休み期間中に移り住んでからしばらくの間は、母が入院する為に祖父母と同居するということで、街から車で1時間ほど離れた山村の大きな屋敷に、兄と2人で預けられることになった。
 元々祖父母の猛反対を押し切って、ほとんど駆け落ちからの結婚と出産であったことから、母と祖父母の間はそれまで険悪だった。
 私たちも、今まで会ったことすらない祖父母との突然の同居に戸惑いと不安を感じていたが、意外にも祖父母はとても優しく、私たち兄妹を大変可愛がってくれた。
 すぐに祖父母と打ち解け、学校が始まるまでの間、村の人々に挨拶して回ったり、村の中をぐるりと歩いて探検したりした。
 村には小さめの神社があり、そこには唯一遊具が置かれている。
 同世代の子供がいなかったので、そこは私たち兄妹だけの貸切公園となった。
 祖父母の前では話せない父や母の思い出話をしたり、隠れておやつを食べて、お地蔵様にお裾分けしたり。 私たちはそうして両親不在の寂しさを埋めていた。
 そして、長かった夏休みが終わり、学校が始まった。
 村から学校までの距離がかなりあり、さらに山道(やまみち)を通らなければいけないことから、それではあまりに可哀想だと、毎日祖父母が交代で車を出して送り迎えしてくれることになった。

 季節は秋にさしかかり、肌寒く感じるようになった頃だったと思う。
 新しい小学校にも馴染んできた、ある日のこと。
 いつもならば、学校が終わった後は祖父母のどちらかが学校に迎えに来てくれるまで、2人で校門で待っている約束だったのだが、その日は兄が友達と帰りたいと言い出した。
 どうやら、車で送り迎えしてもらっていたことを友達にからかわれたことが原因らしい。 友達も同じ方向で、一緒に帰れるから……と。
「サエはじいちゃんが来るのを待って、俺は歩いて帰ることを伝えてくれ」 と頼まれたのだが、友達と帰る兄が羨ましくて、無理矢理一緒に帰ることにした。
 念のため、自由帳から紙を一枚千切り、「今日は歩いて帰ります。ユウヤ、サエ」と書いたものを校門に貼り付けて。
 山道といえども、通学路はほとんど一本道だったので、友達を見送ったあとも迷うことはないだろう……という、今思えば安直な考えだった。
 三十分ほど楽しく喋りながら歩くと、その後は一人、また一人……と、友人たちは家に帰って行く。
 学校から一時間ほどして、最後の一人が「じゃあまた明日!」と言って家路に着く頃には、あたりはすでに夕暮れていた。
 しかもこの時になってようやく気がついたのだが、どこをどう間違ったのか、祖父母が車で送り迎えしてくれていた私たち兄妹の通学路からは、大分離れてしまっていた。
「ここどこ?」と不安いっぱいに尋ねる私に、兄は少し苛立った様子で、「大丈夫だろ、しばらく歩けばいつもの道に出るよ」と返す。
 車でならばたかだか二十分ほどの道のりだったので、子供だった私たちには距離感があまりわかっていなかったのかもしれない。
 兄の後ろについて歩く。
 最初のうちは兄の言葉を信用して、他愛もないことを喋りながら歩いていたが、いつまで経っても見知った道に出ることがなく、さらに周囲が徐々に暗くなってきた。
 もちろん、山道を歩く疲れもある。 無口になった兄から焦燥感が伝わってきて、私はとても怖くなった。
「いっかい来た道を戻ろうよ」と私が言うが、「うるさい」と一蹴し、ずんずん歩いて行ってしまう兄。
 雑木林と田畑に挟まれた道を無言で歩き続け、しばらくすると何か奇妙な感覚に囚われた。
 ザク、ザク、ザク、と歩き続ける兄と私の足音以外に、一切の音がしないと言うことに気がついたのだ。
 風の音ひとつせず、先程までたしかに飛んでいた鳥や小虫の姿も見えない。
 そして何より、いつの間にか左右対称になっている、山、田畑、雑木林の間に、ひたすら真っ直ぐ伸びる道……。 こんな道はなかった筈だ。
 兄を見ると、どうやら兄はすでにこの異変に気がついていたようで、焦りとも恐怖とも取れる必死の形相をしていた。
 私はそんな兄を見た後、来た道を戻ろうと振り返ろうとした。
「見るな!!!」
 突然、兄が叫ぶ。 私はその大声に驚き、肩をすくめて固まってしまい、とうとう耐えきれなくなって泣いた。
「おかあさーーーん!」と号泣する私の手を取り、「ごめん、泣くな。泣くな」と、なだめる兄の声もまた、震えている。
 兄が私の手をぎゅっと強く握ったまま、「行こう」と声をかけて前に進み始めた。
 でも、どこへ? 後ろには何があるの?
 異様なほど真っ直ぐに伸びた赤土の道を見て不安になりつつも、怖くて兄には聞けず、私はただ泣きながら歩みを進めた。
 無音の世界は、ついに日が完全に隠れて、月明かりだけが照らす闇となった。
 いつの間にか兄も嗚咽混じりになっていて、とにかく前へ、前へと前進していく。

 もう何時間歩き続けただろうか。 足が上がらなくなってきた。
 私は兄の手を振り払って、立ち止まった。
 もうお互いに文句を言ったり喧嘩する気力はなく、その場で二人、へたり込んだ。
 自分達の歩く音が聞こえなくなったことで、無音がより一層際立つ。
 兄が何かを感じ取り、鼻を啜って嗚咽する私に人差し指を立てて「しー……」と言った。
 ズズー、ズ、ズーーー……という、何か大きな物が地面を擦る様な音が、背後からしてきた。
 それはまだ遠くから聞こえていたが、徐々に近づいている様な、そんな気配を感じる。
 私たちは顔を見合わせると急いで立ち上がり、一層強く、痛いほど手を握り合った。
 恐怖から、兄も私も顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 兄は嗚咽してしゃくりあげながら「お父さん……お父さん……」と祈る様に繰り返している。
 ズズズ……という音が近づいてくるにつれ、何かの声まで聞こえてくる様になった。
「」
「」
「……ひ と」
「……つ」
「……ふ、ふ、」
「た……つ」
 女なのか、男なのか、ハッキリとはわからない、だけども、腹に響く様な重い声。
 その声は、「ひとつ」「ふたつ」を繰り返している。
 私たちはその声と言葉を認識した瞬間、パニックになり、振り返ってしまった。
 それは、闇だった。
 今思い出しても、わからない。 夜の闇なのか、夜よりも深い闇なのか、影なのか、それら全てなのか。
 それが、暗くて見えづらい道の向こうにぽかんとあった。
 その闇の中から、「ひとつ」「ふたつ」と声が聞こえるのだ。
 じわりと生暖かいものがズボンを伝ったが、そんなことは構わなかった。
 棒の様になり曲げられなかった足を無理矢理動かして走った。
 お互いに何かを叫んで走っていたが、自分が何を言っているのか、兄が何を言っているのか、わからなかった。
 助けて、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先生、おじちゃん、おばちゃん、〇〇ちゃん、〇〇くん、お地蔵様……。
 一度にたくさんの人の顔が浮かんだ。
 何度も転び、それでもがむしゃらに進み続けると、前方にぽつりと灯った街灯を見つけた。
「灯りだ!」と兄が言い、私たちはとにかくその灯りのもとに行こうと、力を振り絞って走った。
 近付くにつれて、その街灯の向こうに見慣れた社がゆっくりと姿を現した。 村の神社にある社だ。
「何でこんなところに」
 疑問は浮かんだが、今はそれどころではない。
 いつもは南京錠で固く締められていた社だったが、その南京錠が付いていないことに気がつくと、兄が社の観音扉をバン!と開けて、2人で中に飛び込んだ。
 急いで扉を閉めて、息を殺す。
 上半分が格子状になった扉からは、月明かりが差し込んでいる。
 ふっ……とその月明かりが何かに遮られた。
「ひと……ぉつ」
「ぅうふたぁつ」
 金縛りに遭っているかのように格子窓から目が離せずにいると、二センチ四方の格子のいくつかに、ギョロリと突然目が浮かび出た。
 私はそこで気を失った。

 身体中のきしむような痛みで目が覚めた。
「サエちゃん!!!」
 ぼんやりとした視界の中からおばあちゃんの声がして、暫くすると数人が私を囲んだ。
「よかったね、よかったね」と泣く祖父母の声と、私の手を握る、暖かな誰かの手。
「お兄ちゃんは……?」
 ようやく出せた声に、「ここにいるよ」と震える兄の声が聞こえた。 どうやら手を握っていたのは兄のようだった。
 私は心から安堵して、また自然と眠りに落ちた。
 そこからまた数週間後、すっかり回復した私は、祖父から事のあらましを聞いた。

 私たち兄妹は、五日間行方がわからなくなっていたそうだ。
 村はもちろん、学校や警察までをも巻き込んだ捜索活動の末、村の神社の社から、兄の助けを求める弱々しい声がして、開けてみると私たちが入っていたのだという。
「外から俺たちを探す声がして、その時初めて目が覚めたんだ」と、兄。
 不思議なことに、社には外側からしっかりと南京錠がかけられていたというのだ。
 兄は、全身青あざや擦り傷だらけでかなり衰弱していたが、かろうじて意識はあった。
 が、私はというと、まるで魂が抜けたかのように呆然と虚空を見つめるだけで、受け答えが全くできなくなっていたらしい。
 ずっと隣で話を聞いていた祖母は、「気が触れてしまったのかと……」と涙を流した。
 街の病院で医者に診てもらったが、体のあざや擦り傷、栄養失調以外には全く問題がないとのことで、兄と共に数日の入院を経て祖父母宅に戻ってきたのだという。
 祖父は説明しながらも、「藪医者め」と悪態をついていた。
 そうして一週間ほどが過ぎ、私の目に光が戻った瞬間を、祖母が発見した……というものであった。
 あのおかしな出来事についても聞いてみたが、そんな話は聞いたことがないと言われてしまった。
 それから、私は見ていないのだが、兄は社があった街灯の下に誰かが立っていたと言っていた。
 誰かが社を指差していたのだと兄は言った。
「あれはきっと、お父さんだったと思う」 と。

 あの闇と何か関係があるのかはわからないが、あれからすぐに私は原因不明の夜盲症になってしまい、二十九になる今でも夜外に出たり、暗い場所に行くのが非常に怖い。
 が、それ以外に異変はなく、二十年ほど経った今、兄も私も家庭を持ち、退院した母と祖父母は田舎で仲良く一緒に暮らしている。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ
朗読: 朗読スル脛擦(すねこすり)
朗読: かすみみたまの現世幻談チャンネル

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる