半分、埋まってる

 江津子(エツコ)さんには名古屋に住んでいる伯母が居る。
 母親の姉に当たるその伯母の事を彼女は「名古屋の伯母ちゃん」と呼び懐いていた。
 母方のお墓が静岡にあり、毎年お盆の時期になると江津子さんの家族はお墓参りへ行く事になっていた。
 その後、名古屋まで移動をし、伯母の家で数泊して帰るというのが毎年の恒例行事であった。
 大人からすると少々面倒臭くもある行程だが、子供にしてみれば立派なお泊り旅行に他ならない。毎年その時期を心待ちにしていたと言う。

 江津子さんがその出来事を体験したのが小学五年生の時分であるから、今から二十年以上も前の出来事となる。
 その年も例に漏れず、お盆の時期になると父、母、姉、そして江津子さんの家族四人で名古屋へ行く事になった。
 通年通り、静岡でお墓参りを済ませると、そのまま名古屋の伯母の家へと向かう。
 伯母の家は築四、五十年が経っている古い一軒家だ。
 古いとは言っても定期的に修繕も行っているらしく、ぱっと見た感じではそこまで古さを感じさせない、ごく普通の家屋である。
 伯母の家に着く頃には陽もだいぶ傾いていた。
伯母と母からは、ご飯を作るから先にお風呂へ入る様に促された。
 姉と一緒に古くも大きな浴槽で、昼間大量にかいた汗と疲れを流した。
 湯船を満喫し、Tシャツと半ズボンに着替える。居間に向かうと既に夕飯が出来ていた。
 天麩羅や山菜にお刺身、更には(子供用に作ったのであろう)大皿いっぱいに盛られた唐揚げがテーブルを埋めている。
 両親も伯母夫婦とこういう機会が無ければ滅多に顔を合わせる事も無い為か、家ではあまり飲まないお酒がかなり進んでいる。父に至っては早くも眼の縁を赤くさせていた。
 一方、江津子さんと言えば、大人達のお酒と話が進んでいる内に、これぞ好機とばかりに、姉と共に盛り沢山のおかず達を各個撃破していった。
 食事が終わると、その後はテレビを観ながら談笑をし、そろそろ寝ようかと言う事になった。
 江津子さん達の家族が泊まる時は、必ず二階の空き部屋を利用させてもらっていた。
 八畳ほどの部屋だが寝る時にだけしか使わないので、特段狭いという不満を感じた事も無い。
 そもそも部屋の中にあるものと言えば、角に小さな仏壇と、壁際に箪笥がある位であり、殺風景と言っても良い程、物が置かれていない部屋である。
 この部屋で家族四人が寝る。
 右から父、母、江津子さん、姉といった順で、川の字で雑魚寝というやつである。
 ただ掛け布団と敷布団は三式しか用意されていない。三式分をくっ付けて、四人が寝るのである。これもまた毎年の事であった。
 伯母曰く、買ってこなければ、といつも思うのだが一年に一回の事なのでつい忘れてしまうとの事だった。
 それでも子供が二人いるので三式分の布団をぴったりくっ付ければ、何の不便も無く寝られるスペースだ。
 部屋にはテレビも無いし、この時代には当然携帯電話もない。だから持ってきた簡易式のラジオを適当にBGMにして、眠くなるまでとりとめもない話を行っていた。
 その内、お酒を人一倍飲んでいた父が一番に脱落した。
 次に母が「明日も早いのだから、いい加減な所で寝なさいね」と言い残して背を向ける。
 残された江津子さんと姉はその後も話を続けていたが、やがて姉の声も眠気を帯びてきた。
 それでもしばらくは、眠そうな声ではありながらも呼びかけには応えていたが、とうとう姉からの返事も無くなった。
 聞こえてくるのは微小なラジオの音と、それをかき消す程の虫の声だけである。
 話し相手が居なくなり途端につまらなくなった江津子さんだったが、他人の家で寝るという特別感が無意識化で精神を昂揚させているのか、なかなか眠気はやってこない。
 しばらくぼんやりとラジオを聴いていたが、諦めて寝る事にした。

 電気を消す為、蛍光灯からぶら下がっている紐を引こうと思った。
 うつ伏せの態勢だった江津子さんは、そのまま半身を起すと身体をひねりながら左手を伸ばす。
 一瞬視界の端に異物が映り込んだ。壁の辺りに白っぽい何かが映ったのだ。
 ほとんど条件反射でそのまま首をひねり、その正体を追う。
 そして江津子さんは固まってしまった。 彼女の右手側にある壁際に人が立っている。
 女だ。
 壁にぴったりとくっ付く様に、こちらに背を向ける形で佇んでいる。
 一瞬、江津子さんはその女が壁に身体を押し付けているのだと思ったと言う。
 だが、そうではなかった。
 その女の正面部分、顔側が壁に半分埋まっていたのである。
 まるで壁を通過する途中であるかの様に、その女の顔が、胴が、足が、壁に埋まっていた。
 肩まである真っ黒い髪と白いワンピースの様な服が、網戸を通して入り込んでくる夜風に当てられ揺れている。
 始めは呆気に取られていた彼女だったが、脳が状況を理解した途端、凄まじい恐怖が襲ってきた。
 自分はマズいものを見てしまっている、と理解した。
 女は全く動かなかった。
 まるで、もともと壁にくっ付いていたオブジェの様に。それが却って一層不気味に感じた。
 家族を起こして助けてもらわないと危ない。彼女は混乱する頭でそう考えた。
 だがそんな内心とは裏腹に、身体を動かす事も、声を出す事も出来ず、彼女はただ壁に溶け込んでいる女を凝視している事しか出来なかった。
 と、それまで全く動かなかった女の首が動いた。
 ゆっくりと後頭部が右に動いていく。 江津子さんは戦慄した。
 女がこちらを振り向こうとしているのが分かったからだ。 慌てて布団に潜り込む。
 前述した通り、彼女たちが寝ている布団は三式である。彼女が寝ていた場所は、ちょうど布団の繋ぎ目である接合部分であった。
 左右の掛け布団を力いっぱい引張り、頭から布団を被った。震えが止まらない。
 歯の根が合わなかったが必死で堪えた。
 既に江津子さんの存在は知られているであろう事は分かっているのだが、音を立ててはマズい、と何故かその時はそうとしか考えられなかったと言う。

 どれほどそうしていただろうか。
 先ほど見たものの恐怖と、八月の気温で汗が体中から噴き出している。
 このまま朝まで布団の中に潜り込んでいる事も出来ない。
 案外自分の見間違いだったのかもしれない。
 自分にそう言い聞かせてみると、大分落ち着いてくる。
 軽く息を吐くと、左右から引っ張ってきた掛け布団の繋ぎ目を、顔の部分だけそっと開けてみた。
 そこに眼があった。
 異常なほど見開かれた眼が、掛け布団が無ければ顔が触れているであろう距離で、江津子さんを覗き込んでいた。
 異様に見開かれたその眼が、視力がある事を証明するかの様に、黒目の奥の焦点を合わせた。
 その眼に反射して映っている、自分の唖然とした表情を確認した時に、江津子さんの意識は飛んだ。

 気付けば朝になっていた。
 既に家族は皆起きていて、着替えも済んでいる。
 江津子さんは必死になって、昨日の出来事を伝えたが、もちろん信じてもらえなかった。
 姉だけは家族の様な門前払いはしなかったが、毎年泊っているのに今回だけ出てくるのもおかしい、と言われ、結局は気のせいで片付けられてしまった。
 それ以降、江津子さんは伯母の家に行く事は拒み続け、今日まで行く事はしていないと言う。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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