カルテ

 あれは阪神淡路大震災の時で、就職間近の時でしたから平成7年のことになります。
 僕は東京西部に住んでいて、調布にある中堅の総合病院の夜勤受付のアルバイトをしていました。
 バイト代は、18時から翌日9時までで8000円。
 今は医療従事者でないと夜勤受付は出来ない様ですが、27年前の当時は私の様な文系大学生でも夜勤は出来ました。
 病院は総合病院と言っても大学病院ほど大きくもなく、日勤はそこそこ患者で混みますが、常連さんのかかりつけの病院と言った規模でした。
 18時の受付終了ともなると、当直の医師1人と夜勤看護師を除いて、医療事務の女性も帰宅してしまいますから、僕の仕事は急患のかかりつけの患者さんを受け入れて、上の階にある看護師に内線連絡を入れて、あとは医師と看護師に対応してもらうだけ、と言う至極楽なアルバイトでした。

 ある日の事でした。
 僕はシフトの夜勤で、いつものように受付センターの奥のソファーに横になり、テレビをつけ、それに見入っていました。
 総合病院と言えども、小さな病院。 深夜にどうしても具合の悪い来院患者さんや、救急車の患者さんを受け入れて手続きすれば良いだけで、それも一晩で2~3人。
 1人も来ない時もざらにあって、僕は形式的な夜勤受付を勤めればそれでいいアルバイトでした。
 その夜の深夜1時頃。 電話がなりました。
 喘息発作の患者さんから看て欲しいとの連絡が来ました。
 その日の当直医は内科医でしたので、僕は了承し、名前と生年月日を聞いて待機する事になりました。
 早速カルテを出そうとパソコンを叩き、その患者さんが過去に受診している事を確認すると、カルテの受付棚でその患者さんのカルテを出そうとしましたが見つかりません。
「ああ、別棟だな……。嫌だな……」 
 僕は舌打ちしました。
 病院に隣接する形で隣の民家と契約している、二階建ての倉庫に、何年も訪れていない患者さんのカルテや医薬品、看護師の新品の制服等が備蓄されているのです。
 カルテも、何年も来ない患者さんは、受付棚に置いておいても場所を取るだけなので、別棟と言われている倉庫に取りに行かなくてはなりません。
 その患者さんは登録番号も古かったので、別棟にあるのは明白でした。
 このバイトは楽でしたが、僕は別棟に行くのだけは嫌でした。
 いつもカルテを取りに行く度に、嫌な気配を感じるのです。 誰かが居るような、背後に立っているような……。
 入り口のドアを鍵で開けて、真っ直ぐに登る階段のスイッチをつけると、ぼんやりと薄暗い電灯が灯ります。
 そこを登った左手にも別の鍵があり、そこの部屋に古いカルテが棚に並べられていました。
 患者さんが来るので、時間がありません。 僕は入り口のドアを鍵で開けました。
 いつもの様に居心地の良いものではありません。
 階段のスイッチを付けて、ギシギシと狭い木造の階段を登ると、今まで以上の異様な気配を感じました。
 人の気配が二階の部屋から漂って来るのです。
 明らかに二人以上の会話が聞こえるのです。 しかし、その様な事はあり得ないのです。
 一階階段のドアは確かに閉まっていました。
 二階の倉庫の鍵をそっと確かめるとこちらも閉まっています。
 スペアキーは本館の受付にしかありません。
「……あの時は……ボソボソ……」
「……眼を刺されて……ボソボソ……」
「……失敗だった……ブツブツ……」
「ボソボソ……ブツブツ……」
 このような僅かに聞き取れる会話が暗闇の中から聞こえるのです。
 そのように聞こえたつもりですが、実際は日本語かどうかも解りません。
 僕は身体が硬直して、一瞬後退りしました。
 僕は元々臆病者ですが、早くカルテを取らなければいけません。
 生死を日常とする病院では霊が出やすいと聞きました。
 そういう時には大声で「出ていけ!」と叫べば良い、と当時の看護師さんから聞いていました。
「入りますよ!!!」 と大声を張り上げ、わざと乱暴に鍵を開けて、電灯のスイッチをパチッ!とつけました。
 暗闇は一瞬で明るくなり、あの念仏の様な声も消え去りました。
 僕は脱兎の如く、未だ背後からの恐怖を感じながら、必死にカルテをゴソゴソと探しだしました。
 3分くらいだったでしょうか。
 カルテを片手に鍵をかけ、階段を転がる様に逃げ去り、ようやく受付センターに戻って来ました。 患者さんが来るのに何とか間に合いました。

 程なく僕はこのアルバイトを辞めました。
 体験したのは声だけでしたが、暗闇にじっと身を潜めていたら、どんな光景を目の当たりにしたでしょう。
 古い話ですが、今も暗闇は苦手です。
 しかし、こういう体験はあれきりです。
 二度と体験したくない事件でした。

朗読: モリジの怪奇怪談ラジオ

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