黄昏に煌めく

 Aさんが子供の頃だから、今から何十年も前の話になる。
 その当時、父の仕事の都合で、Aさん一家は田舎の実家で祖父母と一緒に二世帯で暮らしていた。
 古い建物とは言え、細かな増改築を繰り返していたので、二世帯が住んでも何ら問題はなかったそうだ。
 Aさんは夏が好きだった。外は陽炎の出る気温でも、風の通る一階はとても涼しく、庭に面した縁側で麦茶とスイカを頬張っていたのをよく覚えているという。
 祖父がよくそうしていたので、おじいちゃんっ子だったAさんがその真似をしているうちに板についたそうだ。

 Aさんの祖父は定年してからも、今で言うバイトヘルプのような事をよく引き受けており、砂防ダムの工事や伐木など、昔の仲間から山仕事を頼まれては、よく山へ出かけていた。
 そのため祖父は山に詳しく、休みの日などに山菜や茸といった山の幸をよく採ってきては、家族に振る舞っていた。
 学校が休みの土日、Aさんも祖父と一緒に山へ連れて行ってもらい、山菜採りをしたりもしていた。
 ワラビ、ゼンマイ、タラの芽などをカゴいっぱいに詰め、ほくほくしながら祖父と下山するのがとても楽しいひと時だった。
 祖父はいつも山に入る時、毎回必ず自分の道具をしっかり手入れする几帳面な人だった。
「山を舐めてはいけない」というのが祖父の持論で、どんなに慣れた環境であろうと気を抜いてはいけない、道具の手入れは特に念入りにするものだ、と教えてくれた。
 まだ子供のAさんには刃物は持たせてくれなかったが、祖父はよく研いだピカピカの鉈や山刀を自慢していた。
 祖父いわく、「刃物は魔除けだ」という。
 よく手入れされた刃物は、襲ってくる獣から身を守るための物になり得る。そこから転じて、物の怪や鬼、山に棲む得体の知れないモノを避ける力があるとされているそうだ。
 祖父の愛用していた刃物の道具全てに、「鬼切口」があった。柄から数センチの部分の刃を落とすという魔除けの方法である。
 昔から山師たちの間に伝わっており、現代でも受け継がれている。
 Aさんはそれをどこか寓話のような感覚で聞いていたが、純粋に「道具を大事にする姿勢」をかっこいいと思ったそうだ。

 Aさんが十歳ごろの夏、その日は特に茹だるような暑さが続いていた。
 学校が休みだったので、いつものようにAさんは祖父と一緒に山に入っていた。
 だがこの日の山入りは山菜取りではなく、祖父が引き受けていた仕事の手伝いをする目的だった。
 詳しいことは子供のAさんには分からなかったが、砂防ダム建設工事の現場事務所に用事があったようだった。
 いつもは見知った山の中を藪を掻き分けて進んでいたのだが、その日は車の轍がある砂利道だったので、行き帰りの道中が楽だった。
 祖父が用事を終えた帰り道、少し寄り道をして何か採って帰ろうということになり、砂利道を逸れて藪の中へ入っていった。
 祖父がコンパスで方位を確認していたし、現場事務所周辺はそんなに山深いところではなかったので、多少は違うルートでも大丈夫だろうということだった。
 Aさんも、棚からぼたもちの気分でうきうきしながら着いていった。

 しばらく歩いていると、Aさんはあることに気づいた。
 少し前から、わずかにだが妙な臭いがしている。
 木々や植物などの緑の匂いではない。猪や熊の獣臭でもない。
 形容し難いその臭いを無理やり例えるなら、何倍にも濃縮された人工甘味料を口いっぱいに頬張ったような甘ったるさと、全く手入れの行き届いていない公衆便所の強いアンモニア臭を混ぜたような、とにかく途轍もなく不快な臭いだったという。
 それは歩くたびに強さを増していき、やがて周りの山の匂いを何も感じられなくなるほど強烈になっていった。
 前を歩く祖父も確実に気づいているはずだが、何故か足を止めない。
 普段は明るく饒舌で、山の移動中も面白い雑談をする話好きの祖父だったが、さっきから一言も喋らない。それにこっちを見もしないため、どんな表情をしているのかさえ不明だ。
 空は赤く染まり始め、黄昏時だと告げている。道を外れて歩き出してから、結構な時間が経過している。
 もう既に、いつも山菜を採っているスポットに着いていてもおかしくないはずだった。
 明らかに異常なこの状況にAさんは困惑したが、とにかく祖父について行けば大丈夫だという確信だけはあった。
 重苦しい雰囲気の中、強くなっていく異臭をなるべく嗅がないようにひたすらに歩いていると、唐突に臭いが途切れた瞬間があった。
 おやと思い、何の気なしに横を見ると、なだらかな斜面の途中、少し開けて広場のようになっている空間があった。
 そのほぼ中央の位置に、一際目立つ何かが生えていた。それは遠目には花のように見えた。
 葉のようなものはなく、茎が地面から伸び、異様な形の花が出ている。
 花弁はチューリップのようであり、彼岸花のようであり、スイセンのようであり、菖蒲のようでもある。奇妙で歪な形だった。
 そしてその全てが、警告色を思わせる派手な体色。
 それは、子供の注意を引くには十分だった。気がつけばAさんは、ふらりと足をそちらへ向けていた。
 あんなに不快だった臭いが消えたのは、この花と何か関係があるのだろうか?
 派手な警告色は普通、その名の通り周りに対しての警告である。自分は毒を持っている危険なものだぞ、と。
 だがその花は、どこかAさんを誘っているような気がした。
 Aさんは花の目の前まで寄って、そこへ無意識に跪く。

 初めての感覚だった。
 黄昏に照らされ、淡く煌めくその様子を見た瞬間、言い知れぬ多幸感、思わず涙が溢れてくるほどの感動を覚えた。
 その無限の一瞬、Aさんは人生で味わうであろう幸福を一気に享受した、そんな感覚に包まれていたそうだ。
「もう、思い残すことはない」と、ドラマか何かで聞いたことのある、今際の際の表現が頭をよぎった瞬間、何かがひょいっと視界に飛び込み、Aさんの傍らに落ちた。
 それは、祖父がいつも携帯していた山刀だった。
 そうだ、この素晴らしい花を採ろう、そうすれば幸せになる。みんな幸せになる。
 何故かそう確信し、山刀を手に取ったその瞬間、Aさんは狼狽した。
 さっきまで感じていた多幸感から翻って、目の前にある異形の花が恐怖の対象にしか見えなくなった。
 図鑑などで見たことがある花のどれでもない、植物なのかすら判然としない、このモノは一体何だ?
 この距離まで自分で近づいたのが信じられなかった。
 先程までの多幸感、或いは神の存在を直視したような震える感動を、自分が確かに感じていたという事実が受け入れ難かった。
 それほどこの花のようなものは、形容できないおぞましさだった。
 本能でAさんは飛び退き、花から距離を取ると同時に尻餅をついた。
 立ちあがろうとするも、膝にも腰にも全く力が入らない。
 Aさんは祖父に助けを求めるために振り返って叫ぼうとした。が、体が硬直していて振り向けない。
 いや、振り向いてはいけない。身体が意識とは別に、本能で振り向かせようとしていないのだ。そう直感した。
 今自分が感じているこの恐怖の、何倍も何倍も恐ろしい何かが、真後ろで起きている。何故かそう強く確信した。
 いつの間にか、周りの音が消えている。風も吹いていない。鳥や虫の声が一切しない。
 そのうちに自分の呼吸すら聞こえなくなってしまうような不安に襲われ、Aさんはより一層肝を冷やした。
 山刀を握る両手を決して離してはいけない。頭の中はただそれだけだった。
 この山刀には鬼切口がある。魔除けだ。持っていれば大丈夫だ。
 半ば洗脳するように何度も何度も自分にそう言い聞かせた。震える両手で、痛くなるほどに今一度強く山刀を握る。
 次の瞬間、静寂を貫き、出し抜けに背後から音が響いた。
 うがいのようなゴロゴロという湿った重い音、ミニトマトを手で潰したときのような鈍い音、枯れ木が折れるような乾いた音。
 そして、全く聞き覚えのない女の声。
 それは何かをボソボソと、早口で誰かに話しかけているような様子だった。
 やけにご機嫌な様子で、それでいてどこか怒気を孕んでいる様な、嫌な声だった。
 Aさんは依然、振り返ってはいけないと強く思い直す。心臓の鼓動が早まる。無意識に恐怖で涙が溢れるが、それを拭う余裕さえない。
 だから、目の前で咲き誇る異形の花が黄昏に照らされているのをただ見ているだけだった。
 やがて日は翳り、夕日が山の稜線に隠れていく。
 Aさんはそれをとても恐れた。
 論理的な理由はない、原始的な本能が感じるような、ただ純粋な恐怖があった。
 闇が来るのがただただ恐ろしかった。意味もなく、ただひたすらに「怖い」のだ。
 陽よどうか落ちないでくれと、藁にもすがる想いだった。
 荒くなっていく自分の呼吸と、それに合わせて激しく打ち付ける心臓の音のみが頭の中でずっと反響していく。
 お願い、落ちないで。暗くならないで。いなくならないで。
 ただそれだけを願い続けた。
 しかし願い虚しく、すぐに夜の帷が降りてくる。Aさんは涙と鼻水でめちゃくちゃになった自分の顔を拭もせず、ただそれを見ていることしか出来なかった。
 頭の中では慟哭しながら暗くなるなと永遠に叫び続けているが、現実のAさんはかすり声すら出せない。それはまるで、誰かに首を絞められているようだとさえ錯覚するほどだった。
 やがて夕日はフッと稜線に落ち、周囲から一切の木漏れ日が失われる。闇がゆっくりとAさんを覆っていく。
 生暖かい何かが一瞬だけ、Aさんの耳元をそよぎ、花が笑った気がした。

 Aさんには、その後の記憶がない。
 気がつけば既に家に帰っており、採った覚えのない山菜や茸を両親に預けている最中だったという。
 祖父も特別変わった様子はなく、いつも通りの明るい祖父だった。
 白昼夢か何かを見ていたのだろうか、不思議に思いながらもAさんはその年の夏を何事もなく過ごしたという。
 それから祖父が亡くなる日までの間、あの日、陽が落ちきった後に何が起こったのかを聞くことは一切なかった。何年も胸の中に残り続けた重大なことだと思ってはいたが、なぜだか聞けなかった。
 祖父が亡くなり、父親の仕事の都合もあってAさん一家は都会へ引っ越すことになった。
 明日には新居に移るという日の夜。期待と不安を胸に床に就いたAさんの夢に、祖父のようなものが現れた。
 昏い山の中で、真っ黒なシルエットがAさんに「手放すな」と、あの時の山刀を渡すという夢だった。
 祖父のようなもの、という表現なのは、それは人間の原型をとどめていなかったからだそうだ。それがどういう状態だったのか、Aさんは語らなかった。
 引っ越しを無事に終え、新居での荷解き中、荷物の中に入れた覚えのない錆びた山刀が出てきた。
 それは、夢で手渡されたものと全く同じものだった。

「以来、お守りとしてずっとこれを持っています」
 Aさんはそう言ってその山刀を見せてくれた。
 綺麗に研がれており、何十年も前のものだとは思えないほど状態の良いものだ。素人でも、大事に手入れされているのだということが一目でわかる。
 そして、柄から数センチの部分はしっかりと刃が落とされていた。
「あの体験はただの白昼夢か、子供の頃見た心霊ドラマや映画の影響で、記憶が混濁してるのかも知れませんけど、未だに何だったんだろうなって不思議に思います」
 夏は嫌いになりましたけどね、とAさんは朗らかに笑った。
 ただ一つだけ恐ろしいのは、仕事や旅行のために家を離れた場所で寝る時、誰かに殺される夢を見るのだという。
 ゴボゴボという、湿ったうがいの様な音を最後に目が覚め、体は倦怠感に包まれている。
 そういう時は決まって、あの時に嗅いだ甘い刺激臭を感じるのだという。
 Aさんは、あの山刀から離れたからじゃないのか、という仮説がどうしても拭いきれず、一泊二日以上は絶対に家から離れられないのだそうだ。
 刃物を持ち歩いて銃刀法違反になるわけにもいかないため、二日以上家を空ける必要のある出張や旅行は意識的に避けているのだとか。
「もし二日以上身に付けなかったらどうなるかは分かりません。でも、なんとなく……」
 死ぬと思います。
 Aさんは最後にそう言った。

 取材を終え、Aさんと他愛のない雑談を交わしていた時、きっかけはなんだったか分からないが、葬式のお骨の話になった。
 Aさんの祖父は骨上げの際、下顎のあたりの骨が完全に無くなっていたそうだ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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