ひき逃げ

 この話は昭和40年頃の話になり、話していただいた方は既に亡くなられています。
 その方を、仮にKさんとしておきます。

 Kさんは当時、東京で個人タクシーの運転手をしていたそうだ。
 時代は高度経済成長期。 タクシーを利用する客は多く、 「週末なんかは忙しかったよ」 と、話していた。
 ある日の夜、Kさんは少し長い距離を走らされた事があった。
 目的地は八王子方面、客は身なりの良い男性だった。
 都内ではあるが、その辺りまで行くと豊かな田園風景が広がってくる。 当時は今より緑が濃かった。
 行きは客の案内があったから良かったものの、帰りはたいへんだった。 土地勘がない。
 更には今のようにカーナビなどなかった時代。
 Kさんは地図を広げ、なんとか早く帰ろうとしていた。
 そして、 「早く戻ろうって焦ってたのもあったんだけど」 と、前置きをし、 「人、轢いちゃったんだよな」 そう、話を続けました。
 そこは静かな田園地帯で、人通りも少なかったという。
 そんな場所だったため、焦りもあったが注意力が散漫になっていた。
 轢いてしまったのは女性だった。
 Kさんは慌てて外に出て女性の安否を確認したが、女性は血を流し動かなくなっていた。
 呼びかけても返事がない。
 警察や救急を呼ぼうにも、当時はまだ携帯電話は普及していない時代。
(近くの民家から電話を借りよう) そう思ったKさんだったが、 (逃げてしまおうか) と、一方で悪い考えが浮かんでしまった。
 まわりを見渡すと目撃者はいない。
 タクシーのフロントボディにも血痕や傷など目立った跡がない。
 Kさんはタクシーに戻り、そのまま走り去ってしまった。

 この事は当時の新聞に小さくは記事になっていたそうで、その後はビクビクしながら日々を過ごしていたと、Kさんは話していました。
 そして、数日経ったある日の夜。
 Kさんは再び長い距離を走る事になった。
 行き先は八王子方面。 前の時と同じ男性客だった。
 客は酷く酔っていて陽気に話しかけたりしてきたが、Kさんは曖昧な返事しか返せなかった。
 また事故現場を通らなければいけない。 心中、穏やかではなかった。
 やがて車は女性を轢いてしまった、あの場所へと差し掛かった。
 道の端には小さな花が手向けてある。
 Kさんは激しい動悸と緊張で吐き気を催しながらも、なんとか平静を装おった。
 チラリとバックミラーに目をやり、男性客の様子を窺う。
 すると、客が妙に静かな事に気がついた。
 せわしなくキョロキョロと車内を見渡している。
 さっきまで饒舌だったのに一言も喋らなくなっていた。
 やがて目的地に着き男性客を降ろした。 料金を受け取りお釣りを渡そうとした時だった。
 「運ちゃんさ? あんた……それ何を流してるんだ……?」 と、男性客がそんな事を言ってきた。
 客はカーラジオを指差している。
 そして、それだけ言うとお釣りを受け取らずに走り去ってしまった。
 Kさんは怪訝に思いながらカーラジオに目をやった。
 スイッチが入っている。 Kさんは点けた覚えがない。
 さっきの男性客の言葉を思い出し、Kさんはボリュームを上げてみた。
 すると、 「……い…たい……痛い…よぉ……」 という女性の押し潰したようなうめき声が流れてきた。
 後日、Kさんは自首したそうです。
「今でも許してもらえた気がしない」 と、Kさんは最後に言っていました。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる