夜行バスにて

 兎に角、忙しい業界だった。
 妻子を置いて単身上京し、開発業務に携わった。
 土日は遅れを取り戻すマージンとして存在し、月の半分が徹夜作業なんてのもあった。
 ノルマンディー上陸作戦の如く、先頭からバタバタと人が倒れていく。
 課長が倒れたら係長がすぐさま課長になる。適性などは関係ない。
 そうやって、絶対リーダーに向かない人間がチームリーダーになった。
 なったからにはリーダーとしての仕事をしないといけないのだが、如何せん本当にリーダーというものに向いていないのだ。
 常に自分の事だけで一杯一杯。他人を指導する余裕は全くない。
 それでも兵達は「命令を!」とか「情報が足りません!」と突き上げてくる。
 上司に掛け合えば「何とか乗り切ってくれ!」とか「君なら出来る!」などと幻の様な激を飛ばすのみ。 ゆえに不眠症に陥った。
 少し眠れたとしても、全く疲れなど取れていない。
 それどころか、少し眠ったが為に、多忙が約束された翌日にワープしたみたいになり憂鬱になった。
 メンタルクリニックに通った。
 首筋への注射と処方された薬を飲んで魂の糸を繋いでいた。
 医者には「君には休みが必要だ」と毎回言われるが、どう考えても休めるスケジュールを組むことなどできなかった。

 寒い日だった。
 メールチェックから始まる朝。しかし、その日はチェックが出来なかった。
 メールが文字化けしていたのだ。
 皮肉な笑みを浮かべながら隣席のチームメンバーに 「これ、どうやって読むんだろうねぇ……」 と、声を掛けると、モニターを覗き込んできて 「普通に読めば良いんじゃないすか?」 と冷静に返答し、さっさと作業を再開しだした。
 普通に読めっていったって……とメールを見直すと、文字化けは直っていた。
 いや、最初から文字化けなどしていなかった。にも関わらず読めなかったのだ。
 ゲシュタルト崩壊の最上位版という感じで、文字の形は、見た事がある様な無いような奇妙な感じに見えるし、同時に読み方、意味のリンクまでもが切れてしまっている様だった。
 何か言葉を打ってみようとキーボードを叩いてみたが、打った言葉に意味があるのかデタラメなのかの判断が出来ない。
 暫くボー……と呆けてから席を立ち、上長の席に行き状況を伝えた。
「今から掛かり付け医のところに行って診断書を貰って来て下さい」
 わかりましたと診断書を貰いに出向いた。
 医者にも状況を伝え、診断書を貰って帰社すると、会議室に呼ばれた。
「とりあえず家に帰って、出来れば今日中に家族の待つ自宅の方に戻って暫く休職して下さい」
「あ、いやでも……仕事の引継ぎが……」
「大丈夫。私達が上手くやるので安心して下さい」
 そうして緊急脱出ポッドが射出される様に退社した。

 単身者向けアパートに帰ると文字は少し読めるようになっていたが、足の裏が床に着いていない感覚で部屋を無駄にウロウロしながら帰り仕度をした。
 途中何度も何をすべきかを忘れ、用意が完了した時には薄暗くなっていた。
 今から新幹線で帰るのがとてもしんどく思えた。
 今夜23時発の夜間高速バスを予約した。
 ターミナルに到着するとバス待ちの客がポツポツといた。
 いつもは週末に利用するので、もっと沢山客がいるが、平日はこんなものなのだろう。
 売店でビールを買った。こいつで眠剤を流し込むつもりだ。
 アナウンスと共にバスが来たので乗り込む。ガラガラだ。
 隣席に誰もいない状態で利用できた。
 家族の待つ場所に向かってバスが走り出してすぐ、パシュッとビールを開け、喉の奥に薬を放り込んで飲み下した。
 走り出して二時間ほど経ったが睡魔が一向に襲って来ない。
 離れた座席からイビキや寝息が聴こえる。羨ましいとは思わないが苛立ちは感じた。
 睡眠は諦め、カーテンを少し開け、夜露の付いた窓に頭をもたれさせた。
 硬い冷たさがこめかみに浸透する。眠剤の成分が朽ちていく。
「眠れないって?」
 声を掛けられた気がした。
「負傷により前線から一時撤退だねえ」
 これが幻聴というものか……なるほど、自問自答とは違って本当に他人に話しかけられているようだ。
 なにげに横の席に目をやった。暗い闇の中に誰かが座っていた。
 えっ?と思いながら、少し腰を浮かして座席を見回す。
 沢山席が空いている。ポツポツとだけ頭のシルエットが見える。
 腰を下ろし、深呼吸をしてからもう一度横を見る。
 やはり座っている黒い影。
 小柄で、パーカーを着て、フードを深く被って俯いている様に見える。
 若干の恐怖は感じる。
 幻聴に続き、恐らく幻視も出てきたのか。
「隣は邪魔?」
 女性っぽい声だ。
「……いや、席は沢山空いてるなと思って……」
 遠回しに邪魔だと回答した。
「小柄だよ。女子だよ。邪魔?」
 移動するつもりはないらしい。 無視して、また窓にもたれた。
「話、しない?」
「喋ってたらドライバーさんに怒られるよ」
 すると彼女が唐突に耳をつんざく程の金切り声をあげた。
「おいおい! やめろって!」
 耳を塞ぎながら注意したらおさまった。
 再び戻ってきた静寂には、変わらずイビキと寝息が混じっていた。
 まさか今の大声で誰も起きなかったのか?まだキーンと耳鳴りがしている。
「ほら、話しても大丈夫だよ」
「そうみたいだね……」
 ただ、今は会話を交わす気力が殆ど無かった。
「あんまり喋りたくないな……」
 そう言いながらまた窓にもたれ掛かった。
「私の話を聴くだけは? だめ?」
 耳に吐息が掛かる程の所でウィスパーボイスで話しかけられた。
 ビクッとしたが、体勢は変えないまま 「五月蝿くなければ……」 と、仕方なくOKを出した。
 彼女の吐息はオレンジガムの香りがした。
 それに混じって、女性っぽい柔らかで優しい匂いがした。今度は幻臭だ。
 彼女は相変わらず影の様ではあったが、座席に体育座りしているのがわかった。
 その状態で彼女は呟き始めた。

 彼女には訛りがあった。
 言葉は標準語風だがイントネーションが独特だった。
 南国の地方の、どこか懐かしさを感じる訛り。声の感じからすると中高生ぐらいかなと思った。
 で、何を話しているかというと、彼女の持論的なもの、世の中に対しての憤り、雑学、色々混ぜこぜに延々と語っている。
 答えや同意を求めてくる訳ではなく、眠気も相変わらず全く無いので、鬱陶しくはなかった。
「赤ちゃんは何処からやって来るの?」
 唐突に彼女に質問した。
 それも、子供っぽい且つ、ちょっと答えに困る様な質問を。
「神様の家からだよ」
 即座に答えが返ってきた。
「神様の家?」
「お宮さんだよ」
「神社ってこと?」
「こっちの神社ではなくて、あっちの本物の所のね」
「神様は存在するの?」
「いるよ」
「へえ、いるんだ……」
 幻聴は面白いことを言う。
「女性のおなかん中に神様の家に似たものを作ってそこから生まれるようにしてある。わかる?」
「……子宮?」
「そう! で、男性がお宮さんを訪ねて、こっちに連れてくる」
「ほう……」
「お宮さん(子宮)から出て、参道(産道)通って、こっちに来るの」
「上手いこと言うなあ」
「上手いことと言うか、模してあるからね」
 幻聴も聴いてみるものだ。とても面白い話だ。
「地獄はある?」
「無いよ」
 またすぐ答えが返ってきた。
「無いんだ……」
「敢えて言うなら、この世が地獄。わかるでしょ?」
 そうだなと思った。今、地獄で苦しんでいる真っ最中だ。
「まあ、こっちに生まれるってことは、いわゆる修行的なものだから、地獄の様な所で丁度良いって感じ」
 これもなる程と思った。
「じゃ、死ぬって何?」
「修行を成就して、あっちに戻るってこと」
  即答だ。
「あっちはどんなとこ?」
「穏やかで、いい気候で、いい香りで、のんびり出来るとこ」
「なんで地獄の様なこっちに子供を寄越すの?」
「寄越すんじゃなくて、本人が行きたいって、戻りたいって言うから」
「地獄に?」
「例えば……子供産んで、こんなに痛く苦しいことはもういやだってなっても、時が経てばまた出産に挑んでるって感じかな。こっちにはこっちの魅力があるんだよ」
「自ら命を経ったら?」
「即こっちに強制送還」
 そんなやり取りをずっと続けた。
 宇宙の事、過去や未来の事、学生の頃にホームレスから聞いたこの世の成り立ちの事……。
 何を聴いても言い淀むこと無く答えが返ってきた。
 その間はまるで宇宙空間を宛もなく走る、銀河鉄道ならぬ銀河交通の貸し切りバスに乗っている気分だった。
「で、君は幻覚?」
「お化けだよ」
「お化けなの!?」
「お化けだよ。幽霊……かな?違いが分かんないけど……」
 夜明けが各車窓のカーテン越しにうっすら存在をアピールしだした。
 彼女がシルエットから徐々に色と立体感を纏い始める。
 その様子を見つめる。
 真っ白なパーカー、鮮やかな朱色のワークパンツ、裸足。被っていたフードをめくり、顔を露出させる。
 丸顔で、ショートボブの前髪をピン留めしたエキゾチックな顔立ちの可愛い女の子。
 見憶えがあった。
 実家にあった古い卒業アルバムの中にいた女の子。高校生の頃の母だった。
「なっこちゃん?」
 生前、母の事をそう呼んでいた。
「途中で気付くかなと思ってたのに」
「何してんの?」
「化けて出てきた」
「なんで?」
「あんたがヤバそうだったから」
「……あぁ……それはどうも……」
 何だか、ばつが悪い。
「さて……」
 そう言って母は伸びをした。
「あんたみたいな弱った人には、あんまり言っちゃいけない言葉なんだろうけど……言うよ」
「いいよ……」
「いいよってどっち?」
「あ、言って良いよって意味」
 母は近付いて来て、額と額をくっ付けた。オレンジガムの香りがした。
 目を瞑り、念を込める様に 「きばいやんせ、けしんかぎい、きばいやんせ!」 強く静かに、そう言った。
 そして、口の中のオレンジガムを取り出して、私の口に突っ込んだ。
「ちょっ!」
「あんたんでしょ! それ」
 その時、バスの車内ライトが全点灯した。
「皆様おはようございます」 とドライバーが乗客に起床を促した。
 ライトに目を向けている間に母は消えていた。
 口の中に殆んど味のしないオレンジガムが残された。

 ふと、思い出した。
 幼い頃、パチンコ玉大のオレンジ味のガムが四つ、小箱に入った駄菓子があった。
 母と出掛けている時、そのガムを噛んでいた。
 そのうち味が無くなり、ガムの処理に困り母に訴えたら、母が手を差し出してきたので、そこに吐き出した。
 でも結局、母も処理に困って自らの口に放り込んだのだ。
 それを見て、何だか母の愛を感じた。
 それと同時に、そのガムが急に惜しくなって、やっぱり返せと言った。
 虫歯がうつるからだめだと言われ、返せ返せと大泣きした。
「あのガムか……」
 味のない、オレンジの香りだけがうっすらと残るガムを噛みながら、車窓に流れる地元の景色を眺めていた。
 景色が、水を入れ過ぎた水彩絵の具の様に滲んで揺らいだ。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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