二十代半ば頃の話。
友人と飲みに行く約束をして、夕刻に待ち合わせの飲み屋前で待っていた。
この界隈は幾つもの大きな飲み屋街の通りが交差して、更にメインの通りから枝のように横道が伸び、そこにも隠れ家的な店が潜んでいる。
待ち合わせている店は、メイン通りの大衆居酒屋且つ何度も来ている店なので迷うはずもない。
なのに友人が全然来ない。まあ、遅刻魔なので致し方なしだったが。
じっと突っ立ってるのもあれなので、店の周辺をうろうろしていた。
店と店の間に細い路地があった。
路地と言うより建物間の隙間と言うべきもので、幅は人が両手を横に広げた程で、奥行きは20メートルぐらい。
店の勝手口や空き瓶が納まったケース、エアコンの室外機、排煙口、地面には潰れた空き缶やタバコの吸殻なんかが落ちている。
勝手口上に電灯がある以外は灯りは無く、路地の先には、また別の飲み屋街の煌びやかな光が見え、この路地の暗さを一層際立たせていた。
排煙の香ばしいけど油っこいニオイを嗅ぎながら暗い通りのあちこちを見ていたら、いつの間に通りの先に人が立っていた。
向こうの通りの灯りが逆光になりシルエットになっているが、何か変だ。頭が大きくイビツな形をしている。
体はロングコートでも着ているのか緩やかな曲線を描きながら下まで続く。
と、いうか曲線は足元で広がって地面と一体化し、まるで地面から生え出ている様だ。
目を凝らすと、もう少し様子が見えてきた。
和装の花嫁衣装を着た人だ。 白無垢の打掛を羽織っている。
頭が大きくイビツだったのは、文金高島田に角隠しのスタイルだったからだ。 なんでこんな所にそんな格好でいるのか? 結婚式の二次会か? 何かのサプライズ? 仮装?
理由を思いめぐらせていると、こちらを見ている視線をその花嫁から感じた。
暗いのと遠いのとで見にくくはあったが、まるで発光してるかの様な紅色の唇が微かに動いたように見えた。
その途端、花嫁が素早い摺り足でこっちに向かって来た。
ズルズルと裾を引き擦る音がする。
口がパカッと開かれた。口中は真っ暗だ。
両手を徐々に横に挙げながら、ついには左右の壁を指で擦るように触りながら近づいてくる。
その時には、もう金縛りになって動けず、目も離せない。
空き缶や吸殻を摺り足で蹴散らし、サッカーゴールを守るキーパーの様なポーズでこちらに向かってくる。
近付くにつれ花嫁の笑い声とも泣き声とも思える様な叫びが聞こえてくる。
このままこっちに来ると私とぶつかる。
近付いてきて判った。身長が2メートル以上ある。
私は即座に諦めた。諦めて花嫁との衝突を受け入れる覚悟をした。
5メートル程手前で手を前に突き出し始めた。
まるで私を抱き締めようかとするように。
更に近付くにつれ角隠しの影で見えなかった目が見えた。
私を見下ろすようにギョロリと黒目を下に向け、頬は涙で濡れている。
花嫁は何かを叫んでいた。
意識も金縛りになっているのか、気絶もできないまま、花嫁と目を合わせたまま抱き締められた。
その瞬間、まるでダクトから出ている煙かの様に花嫁はボワッと霧散した。
しかし、私にとっての地獄はここからだった。
生きてきた中で一番酷い悪臭が一帯に立ち込めた。
硫黄、塩素、アンモニア、メタンガス、腐った肉、魚介の内臓、ウォッシュタイプのチーズ、蒸れた靴下、下水…そんなものをミキサーにかけて霧吹きで散布した感じだ。
私は我慢できずに路地に置いてあった青いゴミバケツの蓋を取って嘔吐した。
何も食べてなかったので胃液ばかりが出た。
突然肩を叩かれ腰が抜け、へたりこんだ。友人だった。
「こんなとこに居たらわかんねーよ!…って、もうベロベロじゃねーか!」
友人は私が酔って吐いていると勘違いしているようだ。
既に悪臭は消えていたが、とりあえずこの場所から離れたいので、違う通りの違う店に行った。
そこで、さっきの出来事を友人に説明した。
「やっぱ酔ってるだろ?」
「いや! 今飲んでるのが一杯目だって!」
信じてくれと説得するのも怠いので、忘れるためにメチャクチャ飲んだ。 そして吐いた。
それから特には、あの花嫁に関わるような出来事は起きてはいない。
が、あの場所付近にまつわる話で、ちょっと関係のありそうな男女の切なく悲しい話があることを知った。
その近くに奉ってある所があるらしいので一度参ろうと思う。
その場所が細く暗い裏路地の様な場所じゃなければ。