雪の中の訪問者

 昔、地元のスキー場で住み込みのリゾートバイトをしていたことがある。
 担当していた業務はリフト監視員で、乗り込むお客さんが転んだり、強風が吹いたりしたらその都度リフトを止めたりするというものだった。
 一つのリフトにつき、三人から五人ほどの監視員が割り当てられており、担当するリフトは日によって変わったりするのだが、私が主に受け持っていたのは、そのスキー場の一番上に設置されたペアリフトの降り場だった。
 この降り場から向かえるパノラマコースは、このスキー場で一番目玉のコースだ。
 360度に広がる雄大な山々の景色を背に、なだらかに続く曲がりくねったコースを、新雪を舞い上がらせながら進んでいく。晴れた日に訪れることが出来たならば、感動の体験になること間違いなしである。
 だがこのコースはどちらかと言えば遊覧が目的であり、スポーツではなくレジャー向け。土日のピーク時は目が回るほど混雑するが、逆に平日になると途端に客足は無くなる。
 監視員は基本、リフト降り場の横に併設された監視小屋の中にいる。
 この小屋にはリフトの非常停止ボタンや速度調整をするレバーなどがあるので、客が乗っていない時はこの小屋の中で暖を取っていてもいいのだ。
 客が少ない平日などであれば、特に異常がなければ、一日中監視小屋の中に居ることもよくあった。
 そんなペアリフトの降り場で、私はMさんという三十代の男性と共に仕事をしていた。
 彼はとても気さくな人柄で、良く冗談を言っては周りを笑わせているような、とても明るい人だった。
 派遣会社を介して遠い他県から訪れていたので、Mさんも従業員寮に住んでいた。
 だから仕事が終わった後、私はよくMさんと一緒に夕食を取ったり、夜通し酒盛りをしたりしていた。

そんなある日のことだった。
夜から続いた猛吹雪の影響で、監視小屋の大きな窓から見える景色は全て真っ白になっていた。
 数m先の景色も見通せない状況でスキーなどまともにできるはずも無い。当然客足などほとんどなく、誰も乗っていないリフトが、結露した窓の外に広がる白の中から浮かんでは消えていくのをただ見ているだけだった。
 小屋の中では石油ヒーターの臭いと、リフトの機械音だけに包まれていたのをよく覚えている。
 その日、Mさんは朝から元気がないように見えた。
 確かにこんな日に出勤するというのは憂鬱だが、それだけではなさそうな雰囲気を纏っており、珍しく無口だった。
 しばらく居心地の悪い空気が続いたが、そのうちMさんが先に口を開いた。「ちょっと話聞いてくれるか?」
 やっぱり何かあったのかと心配になり、私は何杯目かのコーヒーを二人分淹れつつ、彼の語る話に耳を傾けた。

 Mさんが子供のころの話。
 彼が生まれ育った土地は所謂雪国であり、冬になるといつも雪が積もるのだそうだ。
 当時四歳か五歳だったMさんは、雪が降るたびに庭に飛び出し、雪だるまを作ったりかまくらを作ったりと、雪が好きな子供だった。
 その年、何回目かの積雪の日、Mさんは遊び疲れてこたつでひっくり返っていた。
 両親は共働きで、Mさんの面倒は同居していた祖父母が主に見ていたのだが、その日は二人ともいなかった。
 近所にお呼ばれしたとかそういう理由だった気がする。
 誰も遊んでくれないので退屈だったが、かといって一人で雪遊びをするのにももう飽きていたし、外は吹雪いているしで面倒だったので、Mさんはただただぼーっとテレビを見ていた。
 一つの番組が終わり、コマーシャルに切り替わったその瞬間、Mさんはある感覚を覚えた。それは当時五歳ほどの幼い子供にはまだ理解ができない、とても不思議な感覚。この光景、前にも見たことがあるような——。
「デジャヴ、ですか」
 私の問いに、Mさんはコーヒーを啜りながら頷く。
 既視感とも呼ばれるそれは、誰しも一度は経験したことがあるのではないだろうか。
 自分がまだ経験したことがない事象を、いつかどこかですでにもう経験していたような感覚。
 遠い昔の薄れた記憶が突然目の前に蘇ってくるが、実際にはそんな記憶はないという奇妙な感覚である。
 一説には脳の神経回路が云々……と言う具合で、発生するメカニズムは解明されつつあるようだが、その全貌は未だ不明である。
 オカルトやスピリチュアルの世界では、「前世の記憶」であると言われていたりする。
 デジャヴが起きた時、どう対応するかはその人次第だ。気にしないで放っておく人もいれば、どうにか気味の悪さを払拭しようとする人もいる。
 Mさんはそのどちらでもなかった。この先何が起こるかを予知できるという、まるで超能力のようなこのデジャヴを、受け入れて楽しんだのだ。
 この後、不意に玄関から戸を叩く音が聞こえる。続いて呼び鈴が鳴り、訪問者が来たと分かる。Mさんは留守番をしているので、客の応対をしなければならない。
 そして玄関まで行くと、玄関のすりガラスに誰かの影が浮かんでいる。ここまでがデジャヴの内容だった。
 やはり現実も同じように進んでいく。そして玄関の奥、白っぽいような影の姿が視界に入ると、デジャヴの感覚もなくなった。
 Mさんは不思議な感覚が無くなったことをつまらなく思うと同時に、その白い影に違和感を覚えた。
 何やら妙に大きく揺れているのだ。
 初めは吹雪で髪が靡いているのかと思ったが、それにしては変だった。だがそこは子供の性分、特に気にせず、親から教わった通りに来客の対応をする。
「どちら様ですか」
 影はそのMさんの質問を聞いたのか聞いていないのか、更に質問で返してきた。
「みさきさんはいませんか」
 男とも女ともつかない、不思議な声色だったが、それは確かに人間の声だった。だがMさんはその質問内容には首を傾げた。
「みさき」と言うのは、母の名でも祖母の名前でもない。
 一人っ子のMさんには姉や妹もいない。全く心当たりがない名前だった。
「そんな人いません」
 影は少し間をおき、再び問いかけてきた。
「こうすけくんはもういませんね」
 これも心当たりがない。
 どう返答しようか迷い口ごもっていると、影はさらに続けた。
「ゆうくんはもういませんよ」

 そこまで聞き、小屋の無線が突然鳴ったので驚いて飛び上がってしまった。
 それは下にあるリフト乗り場からの連絡で、こんな天候なので早めに営業を止め、吹雪対策でリフトを全て保管小屋に戻す作業をするという。
 それには人手がいるため、私は下に向かうことになった。
 小屋を出て何気なくMさんの方を振り返ると、手を振る彼の背後に、何か白いもやが見えたような気がした。

 リフトの格納も終わり、寮へ戻る頃には体はクタクタになっていた。
 着替えを済ませて談話室へ向かうと、何やら騒々しい。何事かと聞いてみると、従業員の一人が病院へ搬送されたらしいとのこと。
 担当していたクワッドリフトの格納中、何らかのミスでリフトとリフトに挟まれたそうだ。
 かなりの重さの物体に、索道の力で挟まれてしまえばひとたまりも無いのは、素人目に見積もっても想像に難くない。
 事故の瞬間を誰も見ていなかったそうで、詳しくは誰もわからない様子だった。
 誰もが困惑する中、Mさんだけが異常に真っ青な顔で一人、早足で部屋へと戻っていった。
 捕まえて話を聞いてみると、Mさんはただ「名前……」と呟いた。
 あのデジャヴの話で、不気味な影が発した名前の人物は、全て亡くなっていた人物だったそうだ。
「みさき」と言う人はMさんの小学校の頃の同級生で、転校した先で事故に遭って亡くなっている。
「こうすけ」は最初の就職先の同僚で、ある日に病気か何かを患い、そのまま亡くなってしまった。
 そして最後の「ゆう」だけは心当たりがなかったのだが、それは先ほど事故に遭った人物の事ではないかと言う。
 Mさんと同じ派遣会社から来ていたので、名前は良く覚えていたそうだ。
 私もMさんも何が起こっているのか良く理解できなかったが、何か得体の知れない気味悪さは確かに感じた。
 最後にMさんは、影について付け加えてくれた。
 その後のことは良く覚えていないが、その影の容姿だけは覚えているそうだ。
 玄関の横の縁側の窓から覗いたのか、扉を開けて正面から見たのかは定かではないが。
 身体は人間のそれだが、まるで壊れた人形の関節を無理やり動かしたように、バラバラの方向に四肢が捻れており、さらに顔が真上を向いている。
 それに伴い、通常の人間ではありえないほど顎が裂け、下顎は胸の前にぶら下がり、そこから上の頭部は背中の方へのけぞっている。だからどんな表情だったのか、男なのか女なのかも定かではない。
裂けた断面もどうなっていたかは覚えていないが、そこから無数の指のようなものがうねうね動いていたことだけを強烈に覚えている。
 そして、顔以外の体の各部位が物凄い速さで普通の人間の立ち姿に戻っては、しばらく経つとまた異形の姿に一瞬変わる。ビデオの早送りのように。それが玄関越しだと、風に靡いているように見えたそうだ。
 何故この話を私にする気になったのかというと、私が以前、怖い話が好きだと言っていた事を思い出し、信じてくれそうだったから、と言っていた。
 だがMさんと私は、もうこれ以上この話はしないほうがいいと結論を出し、お互い部屋へと戻った。
 そしてリゾートバイトが終わる日まで、私とMさんは以前のように明るく接し、何事もなく過ごした。

 最後の日、寮のみんなでお別れ会をしたときも、Mさんはいつもの調子で明るく盛り上げてくれた。もうすっかり元気になっていたようだ。
 会がお開きになり、それぞれが部屋へ戻る頃、Mさんが一人だけ談話室の窓の方を向き、物凄い表情で佇んでいた。
 やたら血走った目が恐ろしく、私はしばらく声を掛けれなかったのだが、そのうちMさんが普通の表情でこちらに向き直った。
「お疲れさん、おやすみ」
 振り返ったMさんは至って普通の様子だったが、私は何か不穏なものを感じて彼を呼び止めた。
 どうかしましたか? との私の問いに、Mさんは淡々と、まるで仕事の時のような口調で一言だけ喋った。
「うん。ただのデジャヴだよ。また」
 それを聞いて私は、以前Mさんとした話を思い出し、肌が粟立った。Mさんはそんな私を他所に、そそくさと部屋へ戻っていった。

 それから何年か経ち、スキー場のあった山で何人もの被害者を出してしまった大きな災害が起きた。
 この事件を知った私は、思わずMさんに連絡を取った。あれから何年も経っていたが、何とか連絡は取れ、話ができた。
 Mさんはこう言っていた。
「あの日、部屋に戻ったらデジャヴが終わった。そしたら窓を誰かが叩いたんだ。怖くてじっとしてたけど、そしたら声が聞こえてきた。あの時の影と同じ声が」
 それはやはり、誰かを訪ねてきているような質問をしてきた。「〇〇さんはいませんか?」と。
 そしてそいつは、数え切れないくらい物凄い数の名前を列挙していった。それは日が昇るまで、延々と、ずっと続いた。
 後になってMさんが覚えてる限りの名前を調べてみると、それは災害で亡くなった人たちの名前だった。
 一体この存在は何なのか、それは今になっても分からない。調べようとも思わないほど恐ろしいのは確かだが。
 最後にMさんは「あいつはいつもいつも、吹雪の日に必ず来る」と言っていた。
 私はMさんとの電話を切った後、窓の外を吹雪が叩いているのに気付き、思わずカーテンを閉めた。
 吹雪の奥に、何かが見えてしまうような気がして。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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