事切れた糸

 これは、数十年前に亡くなった祖母の話です。

 当時、私と妹は両親と母方の祖母の家に暮らしていました。
 祖父を亡くした祖母は、直ぐに痴呆症を発症し孫である私達の判別もできない程の状態で、時折獣じみた雄叫びをあげるなどの奇行も見られ、私も妹も怖くてあまり祖母には近付けない有り様でした。

 そんなある日。
 祖母の様態が急変し、これ以上祖母が苦しむ姿を見ていられないと、両親と親戚一同の意見もあり病院に延命を望まない事を伝え、家で皆で見守ることになったのです。
 医者も来てくれる事になりましたが、 電話でもういつ亡くなっでもおかしくないと言っていましたが、私達姉妹はその場の様子が何だか怖くて二階に引きこもっていました。
「お姉ちゃん、あの糸何だろ?」
 不安に押し潰されそうになりながら、部屋の壁にもたれかかっていた私に、突然妹が押し入れを指差しながら私に言ってきました。
「これ?」
 首を傾げ妹が指さす方向に目を向けると、そこには確かに妹が言うように細長い白い糸が、押し入れの隙間から飛び出ていました。
 部屋は普段来客用の部屋で何も無く、押し入れには布団ぐらいしか入ってないはずです。
 不思議に思った私がその糸に近付いた瞬間、妹が、 「何だろうね」 無邪気に言いながらその糸を手に持ち引っ張ったのです。
 すると糸はスルスルと押入れから引っ張られていきます。 母が裁縫道具でも押し入れにしまったのかな? などと思っていると。
  ──プツン、 妹が手に持っていた糸が、勢いよく引っ張られたせいで切れてしまいました。
「あ~あ、ママに怒られ……」 そこまで言いかけた時です。

「ぎゃあああっ!!」
 叫び声でした。 しかもその声は、私達姉妹がよく耳にしていた、あの祖母の声、更にその声が何故か押入れから聞こえたのです。
 びくりと肩を震わせ妹が糸から手を離しました。
  瞬間、畳の上に落ちた糸が、まるで生き物の様にノタウツと、蛇みたいにスルスルと部屋から出て行き階下へと滑るように行ってしまったのです。
 私達姉妹は目の前で起こった一部始終に唖然とし、立ち尽くすしかありませんでした。
 その後、祖母の死を知らせにやってきた両親に、私達は飛び付くようにして抱き、何時までも泣きじゃくっていました。

 それから半年が立った頃です。 ある夜、妹が私の部屋にやって来ました。
「ねえお姉ちゃん、お願いがあるの……」
「何?」
 聞くと妹は昼間、どうやら亡くなった祖母の部屋に忍び込み、祖母が大事にしていた市松人形で遊んでいたそうで、遊んだ後に片付けた際、人形にガラスの箱を被せ忘れたかもしれないと私に相談しにきたのですのです。
「それで……ママ達に見つかって怒られるのも怖いし、一人で夜におばあちゃんの部屋に行くのも怖いから着いて来いって?」
 少し意地悪そうに私が言うと、妹は萎んでそのまま消えてしまいそうな勢いで肩を縮ませ、コクリと頷きました。
「もう……分かった、ついておいで」
 妹の必死の訴えに根負けした私は、一階に降り、妹と共に祖母の部屋に向かいました。
 部屋に入り、入口にある電気の押しボタンに指を掛けます。 かちりと音を立て部屋が明るくなったのを確認し、私と妹は人形が置いてある箪笥の上に目をやりました。
 透明のガラスの箱は、人形に被せてありました。
「何だ、ちゃんと被せてあるじゃない」
 呆れた声でそう言った時でした。

「あれ? 本当……あっ……!」
 妹が突然声を上げたのです。
 寝ている両親に気付かれたらまずいと思い、私は咄嗟に妹の口に手を被せました。
 しかし妹はその手を勢いよく振り払い、人形の方を指差し私に言うのです。
「お、お姉ちゃん、あ、あれ……!」
 妹は目を見開き何故か声を震わせ私に言ってきました。
「えっ? な、何?」
 慌てて言いながら、 私が人形に目をやった時です。 私の目に、絶対に見たくは無いものが映ったのです。
 それは人形に被せられたガラスの箱、その箱に挟まれるようにして人形から伸びている……白い糸……。
 あまりの事に、私は声もあげられませんした。 おそらく妹もその場で凍り付いていたのでしょう。
 まるで時が止まったかの様に静まり返った光景を打ち破ったのは、あの白い糸でした。
 糸は、あの時の様にスルスルと動き出し、人形に吸い込まれていくのです。 いや、人形の中に糸が入り込んでいくと言った方が正しいのかもしれません。
 糸が全て人形入り込んだ瞬間、 ──ガシャン
 人形は箱ごと畳に落ちて、ガラスの箱は音を立てて割れてしまいました。
 普通ならそこで両親に怒られると考えるかもしれませんが、その時の私達は目の前で起こる恐怖の光景に完全に支配されていました。
 畳に落ちた人形が、まるで意志を持ったかのように、むくりと立ち上がります。
 歪に曲がった首を器用に自分の手で整え、私達の方を向いています。 そしてゆっくりと、一歩、また一歩と私達に近付いて来ます。
 瞬間、 (妹を守らなきゃ!) 強くそう思った私は、部屋の隅にあった箒を手に取り人形に向かって無我夢中で振り下ろしていました。
  ──グシャリ と鈍い感触が手に伝わります。 同時に人形の首がもげ畳の上に転がります。
 すると、今度はもげた人形の首の辺りから、あの白い糸がニョロニョロと蠢きながら出てきたのです。

 限界でした。
 私達は決壊したダムのように、ありだっけの声で叫んでいました。 気が狂いそうな思いをぶつける様にして。
 気が付くと、私達は騒ぎに駆け付けた両親に抱きしめられていました。
 両親は訳も聞かずに、ただただひたすら私達を抱き続けていました……。

 あれから時が経ち、妹も私も結婚して一児の母として暮らしています。
 ですがそんなある日、久々に両親の様子を伺いに、妹共々実家に帰省した時の事。 母からこんな事を聞かされたのです。
 祖母が亡くなった時、後になってやって来た医者が妙な事を言っていたと。 祖母の死亡推定時刻が確認できなかったと言うのです。
 家族から聞かされた死亡時刻と噛み合わず、しばらくして医者は、それ以前に亡くなっていたのではと、とんでもない事を言い出したのだとか……。
 勿論祖母が生きていたのは家族を含め親戚一同が確認していますし、祖母が生前通院していた病院の看護婦や医者も、祖母が亡くなる前の姿を確認しています。
 結局、医者はできれば死体を解剖させて欲しいとお願いしてきたらしいのですが、親戚一同から猛反対を受け、警察も事件性もないからという理由で、そのまま火葬されたそうです。

 私はこういう事には疎く、よく分かりませんが、一つ思うのです。
 あれは……あの糸は、もしかしてああやって誰から誰かへと……いいえ、もうこの話はここまでにしておきます。
 知った所で私には何もできませんし、何かするつもりもありません。
 ただ、こうやって話せた事で、少し気が楽になったかのような気がします。
 あの時、妹と私が叫んだ時、駆け付けた今はもう亡き父の足元に、あの白い糸がチラリと見えた事も、もう全て話し終えた今は、忘れ去りたい記憶ですから……。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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