消えた時間

 もうかれこれ40年前の話。

 私はあるタウン誌の編集アルバイトをしていた。
 夏の恐ろしく暑い日、とにかくやりたくない仕事が回ってきた。
 隣県まで含めた家電量販店などを回り、商品価格の比較をする、というベタな企画で、そうなればいやでも取材に回るのは、我々若造ということになる。
 もちろん社用車なんてしゃれたものはない。私鉄を乗り継ぎ、予定によれば20軒ほどを回らなければならなかった。冗談じゃないよ全く……。
 40度近い猛暑の中、走り回る身にもなってみろと編集長に毒づいてみたもののまあ仕方がない。
 いやいやながら仲間数人と手分けして、朝一番から出かける羽目になった。
 もちろん取材といっても、相手に歓迎される仕事でもない。そりゃそうだ、熾烈な価格競争をやってる中で、クーラー、テレビ・ビデオ・ラジカセなど、若者に人気の商品の値段をメモして回る。
 ご丁寧最初の数件こそ順調だったが、あとが悲惨。
狭い地方都市なのに、予定された店舗の場所があまりにバラバラ。バスも電車もうまく乗り継げない。ひたすら炎天下を歩くことになった。
 おまけに店ではm店員に露骨に嫌味を言われたり、ひどいところは塩をまかれて追い返された。
 ほとんどよれよれの状態になりながら、ようやく予定を消化した時には夜のとばりが下りようとしていた。
 今から戻りますと編集部に電話を入れ、私鉄で1時間。ようやく編集部のある町まで戻ってきた。
 今にして思えば、暑さと極度の疲労による幻覚だったのかもしれない。

 歩きなれた都心に戻り、重い足を引きずりながら歩いていると、突然目の前の風景がモノクロームに見えた。
 そしてひたすらのどが渇いていた。
 当時まだコンビニなんて洒落たものはほとんどない。冷たいものを飲みたければ、喫茶店を探すしかない。
 その時、何を思ったか、私は引き寄せられるようにモノクロームの街に入ってしまった。
 大通りから1本入った路地、人通りもほとんどない。まだ稼ぎ時だというのに店舗の明かりもほとんどない。
 朦朧とする意識の中、気が付くと数メートル先のビル…薄汚い古いビルの一階に「コーヒー」という看板がある。
 これも不思議なのだが、どうやっても店の名前は思い出せない。
 何はともあれ、私はその店に飛び込んだ。

 とにかく古臭い、内装も何もかも何年前にできたんだ、という感じ。
 手近な椅子に座りこむと、妙に据えた匂いがした。
 店の人間は、と見渡しても誰もいない。客もいない。
 仕方なくタバコに火をつけ一服していると、店の奥から若い女が顔を出した。
 年のころは20を過ぎたくらいか、細面のきれいな顔立ちをしているのだが、まったく表情がない。
 黙って私の前に歩いてくると、古臭いガラスコップについだ氷水を机に置く。私は一気に飲み干すと、アイスコーヒー、とオーダーした。
 また女は無言で頷き、カウンターに向かった。
 数分後、オーダーの品が出てきた。
 その代わりといっては何だが、水のお変りも持ってこない。
 なんて愛想が無い店なんだ、と思ったが、脱水寸前だった私には考えている余裕がない。
 目の前に置かれたアイスコーヒーに添えられたストローを突っ込み、一気に飲み干そうとした。
 そして一口、口をつけたところで私はむせた。
 この味はコーヒーではない、腐った酢のような感じだ。そのくせ、口に残ったのは何とも不気味なべたべたした甘さ。
 怒り心頭に達した私は、女を怒鳴りつけようとしたが何か様子がおかしい。
 あれだけ無表情だった女が不気味な笑みを浮かべて私を見ている。
 あれだけ厚かったにもかかわらず、全身が総毛だった。
 これはダメだ、何か変なところに来てしまった、ということは本能的に分かった。
 私はポケットの小銭をたたきつけると、店から飛び出そうとした。
 しかし足が動かない。一服盛られたか、とさえ思った。
 不気味だったのは、女が静かに少しづつ妙な笑みを浮かべながら近づいてくる。
 そして気づいた。女の腰のあたりに、3人の胎児がまとわりついていることに。
 私の記憶はそこで途切れている。

 どうやら表通りに倒れていたところを発見され、病院に送られたらしい。しかも驚いたことに、時間は夜中の3時をはるかに回っていた。
 警察からも事情聴取を受けたが、説明のしようがない。駆け付けた編集長にはどやされるは、本当に散々だった。
 念のため2・3日入院して様子を見ることになり大部屋のベッドで眠ってると、また景色がおかしくなった。
 モノクロームの世界である。そして窓際のカーテンに不気味なシルエットが浮かび上がった。
 あの女だ、腰に嬰児をまとわりつけた姿で不気味な笑みを浮かべている。
 もう耐えられなかった。また私は意識を失った。

 翌朝、医者の制止も効かずに病院を飛び出した。
 すぐに編集部に辞表を出したれからは不思議と何も起こらなかった。
 ただ数日後、どうしても気になってあの店があった、と思わしき場所を歩いたが繁華街のど真ん中に、あの風景はなかった。
 私はあの時、どこにいて誰と会っていたのか。
 あの女の目的は何だったのか。結局それは今までわからずじまいである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる