帰れない病院

もう数十年前になるが、ある大病院の理事長の取材というのが舞い込んできた。

広報課はもうピリピリ、何か極めて気位が高く気難しい人物らしい。
出すお茶の種類から温度までを、おっさんたちが必死なって秘書に訪ねているのは滑稽ですらあった。

まあこちらはこの手の人物には慣れているのでそれほど緊張感もなく、いつものペースで1時間半、お話を拝聴した。

なんでも秘書によれば、
「よほどあなたが気に入ったんでしょう、普通なら1時間の約束を15分で切り上げるような人だから」と笑う。

豪華な応接室を出たのは午後4時ころ。
秘書の女性に、
「帰り道は気を付けてくださいね。帰れなくなることがあるから」
と不思議なことを言われた。

さて部屋から出て左手に向かえばエレベーターがあるのだが、尿意を覚えた私は右手にあるトイレに向かった。
用を足し終えて、さて戻ろうと思ったら、目の前に階段があった。

突き当りは階段になっているようだ。
いたところも4階だったこともあって、これならエレベーターまで歩くより階段を下りたほうが早いや、という考えが浮かんで、快調に降り始めた。

ところがである。
もう普通なら1階についているはずなのに全く到着しない。
私の感覚では確かに1階…建物の左端を歩いてきたのだから右へ歩けば玄関に出られるはずだ。
しかし、右へ向かう廊下がない。

建物の左側は、確か取り壊しを待つばかりの旧病棟のはず。
そちらにしか迎えないのだ。
しかも閉鎖されているはずの玄関が開いている。

ここで私はいらない好奇心を出してしまった。
ものはついでに、そこを見てみようかと思ったのである。
別に何の変哲もない建物。
診察室や病室がただ並んでいるだけ。
じゃあ引き返そうかと玄関に向かったら出られなくなっている。

鍵がかかっている。
大声で人を呼ぶもだれもいない。
確か旧病棟と新病棟は、どこかの階で渡り廊下でつながっているはず、と焦った。私はやみくもに階段を探し、上階にあがった。

ところが4階5階とあがっても廊下なんぞはない。

それに第一、休館の建物はそんな高層階はないはずだ。
ここまで来て私も真剣に焦りだした。

するとなぜか建物内から足音がする。
警備員でも来たかと思い、声をかけるが無反応。

それでも誰かいてくれたほうが助かる、
と思った私は声のしたほうに向かった。

人はいた。
数十年前の看護婦の制服を着た女が無表情に立っていた。
しまった出た、と思ったがもう遅い。

するとその幽霊がこちらに来いと手招きをする。

怖い、足が動かない…はずがなぜかフラフラ勝手に体が動いてしまう。
次の瞬間、突然足元の階段と廊下が消えうせた。
当然、私は落下、「ああ死ぬのかな」と思ったら、なぜか旧病棟と新病棟をつなぐ渡り廊下にいた。

しかもそれは自分がさっきまで取材をしていた4階である。
何気なく時計を見たらもう午後7時、慌ててエレベーターに走り1回までとにかくたどり着いた。

そこで運よく、広報課のおっさんにばったり
「あれ、まだいらっしゃたんですか」
と言われ、実は…と話をすると、何事もなかったように
「トイレから反対方向に行ったでしょ」と笑う。
「あそこねぇ、時々出るんですよ。休館で勤務していたスタッフが寂しいのかね、時々患者さんを呼ぶんです。まああなた元気そうだから、帰されたんでしょうな」…と大笑い。

私は挨拶もそこそこに、慌てて逃げかえった次第。

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