頑張れ

これは内科医と小児科医をやっていた老先生のお話。

もう大分前にお亡くなりになったが、
ちょっとシニカルなところとユーモア感覚もあり、
腕はもちろん人間的な部分でも患者の信頼は厚い人だった。
この先生、酒とコーヒーが大好きで、私がよく通っていた深夜喫茶に現れては、アイリッシュコーヒーを飲むのを習慣にしていた。
しょっちゅう顔を合わすたびに、味の好みが一緒ということで仲良くなった。
とはいえ当時毛先生は60をはるかに過ぎていただろう。
そんな戦士がある晩,、珍しく真剣な表情で語りかけてきた。

「私も長年この商売をやっているが、
実は一番対応に困っていることがあるんだ」
私は今一つ、ピンとこないまま先を促すようにうなづいた。
「言霊だよ、見舞客の発する言葉がどんどん患者を追い詰めていく。
それも見舞いや付き添いに熱心な人間がやりやすい。
それに絶対にダメなん尾は体育会系のノリの人間だな、
ここで先生は大きく肩で息をした。

「簡単に言えば、気楽に患者に【頑張れ】ていう言葉をかけてほしくないんだ。
病人は、ただでさえ落ち着いてみても懸命に
いろいろな恐怖や身体的精神的苦痛と戦っているんだ。
医者はそのつらさを軽減するためにいるんだ。
それなのに、外から来た人間が気楽に、もっと頑張れ、っていってどうなる?
患者を余計追い詰めるだけだ。
特に行っちゃなんだが、危篤状態の患者には
ぜったいかけてほしくない言葉だね。
納得して、自分で虹の橋を渡ろうとする人間を引き留めたらどうなる?」

悪いけどちょっと、病院まで付き合ってくれないか?
と言い出した先生の目力に負けて、同行することになった。
規模は小さいが救急指定病院、当直スタッフもおり明かりもある。
そのまま院長室へと足を運ぶ。
するとまもなく、子供ともお供ともつかない
何ともかすれたような鳴き声が聞こえてくる。
それはだんだん大きくなってくる。姿は見えない。
ただ言葉だけははっきりしている
「先生、私頑張ったのに、どうやってこれ以上頑張るの」と悲壮な訴えだった。
彼は言った
「もう頑張れなんて言う人はいないよ、君は十分に頑張ったんだ。
その結果店に召されたのだから素直に受け入れなさい。
もうこの世の言葉に悩まされる必要はないんだよ」
その言葉とともに、霊がだんだん姿を現してきた。
まだ中学生くらいの女の子だろうか。
「先生ほんと。もういいの?」
彼がうなづくと幽霊は泣きじゃくりながら消えていった。
「こんなのが日常茶飯なんだよ。
何があっても、状況もわからず病人を激励しないでくれ、
がんばれが禁句なのはそのせいさ」

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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