もう一度会いたい

結婚することになった年に、生まれて初めて猫を飼い始めた。
友人の家に迷い込んできた子猫だった。
人を恐れないため飼い猫かもしれないとしばらく様子を見たが、狭い地域のなかで誰も探している様子がない。
友人の家には半年前に飼い始めた気性の荒い雌猫がおり、一緒に飼えそうにないという。
「夫くんの家は一軒屋だよね?飼えるなら飼ってみない?」
そう言われ、実家ではアレルギーもちの家族がいて猫を飼えなかった私は、
すぐさまこれはチャンスだと夫を説得して迎え入れることにした。

猫風邪を患っていてぼんやりとしていた子猫は、
病院で薬をもらってからみるみる回復し、とても活発な子になった。
子猫期の真夜中の大運動会に安眠を妨害されたり、トイレが汚れていると抗議のためふとんで粗相をされたり、と、
お世話は大変なこともあったが、言葉の通じない猫のことだからと
「しかたないなぁ、これでかわいくなかったらただじゃおかないところだぞ?」
と言いながらも楽しく暮らしていた。

大人になった猫は暇を持て余すと家中の開けられそうな窓や扉を執念でこじ開け、度々脱走をはかるようになった。
帰宅すると屋根の上から出迎えて、玄関に先回り降りてくると 「はやく開けろ」 とお殿様のように鳴く。
苦笑しながらあけてやると、餌皿の前に一目散にはしってゆき、にゃあにゃあと催促される。
「少ないとはいえ車も通るし、最近野良猫が増えていて病気も怖いし、
やっぱり外に出ないように対策しないとなぁ…」
と夫と話していたのだが、
あらゆる対策を講じても、ほんとうにどこにそんな知恵があるのかと驚くような方法で脱走を繰り返してしまうこの猫は、
子猫のときの猫風邪が完治しておらず、脱走して帰ってくるとくしゃみと鼻水がぶり返し、
押し入れにこもって一晩じっとしている。
それも、心配の種だった。

飼い始めて7年目。 不安が現実になった。
いつものように脱走して、いつものように押入れにこもったが、
翌日になっても翌々日になっても元気がない。 くしゃみもしている。
病院に連れて行くと、血糖値か高く、しかも猫白血病キャリアであると言われた。
発病するとほぼ助からない。とにかく対症療法で様子を見ようと。

そこから、夫婦と一匹の闘病生活がはじまった。
インシュリンをうち、薬を飲ませ3日、に一回は点滴に。
3ヶ月ほどすると次第に餌が食べられなくなって、大好きなちゅーるですら自分からは口にしなくなった。
発病してからは、病院にいくたびに何本も針をさされるので、歩くのもやっとの体で暴れる。
日に日に小さく、軽く、弱々しくなってくる。だっこするたびに私達は泣いた。

ついにその日がきて、猫は死んだ。
病気になって初めてトイレを失敗した。
たぶん目も見えなくなっていたんだと思う。
片付けてちょっと外出して帰ってくると、もう冷たくなっていた。
様子がおかしかったのに、なぜでかけたのかと、死に目に会えなかったことで私はひどく後悔した。
夫を呼び、一晩いっしょに寝てから、翌日二人で猫が遊びに行っていた森に埋めた。
受け入れられなかったから、 「猫は暑いから涼しい森に遊びに行ったのだ」 と言い合った。

それから、いるはずのない猫の気配を家の中で感じるようになった。
誰もいない家に帰ってくると、足元をすり抜けて上がりこんでゆく気配がする。
朝コーヒーを飲んでいると、「とたっ、とたっ」と階段を降りてくる足音がする。
ダイニングテーブルとチェアの間に薄茶色のふわふわが見える。
ああ、まだいるんだ、と思えて嬉しかった。
実はそのころ、我々夫婦は離婚した。
猫のために共闘していた間だけストップしていたのだが、
猫がいなくなり、関係は修復できず、私は家を出た。

一人暮らしは気楽で楽しかった。
友人と飲み歩き、好きな時間に本を読み、食事も家事もいくら手を抜いても文句を言われない生活は快適だった。
しかし、ある晩、私は慣れないワインを飲みすぎて悪酔いした。
突然ひどく寂しくなった。
布団に入ってからも猫が同じ布団にいないことがとてもとても寂しくて泣いた。
死にたいと、離婚して初めて思った。
その時、枕元で 『ぷしっ』 聞き慣れた、猫のくしゃみの音がした。
驚いて身を起こしたが、なにもいなかった。
家を出た私に、ついてきてくれたのだと嬉しくて私は泣いた。
もう一度、猫を抱いて頬ずりをしたかった。
でもそれ以来、一度も猫の気配を感じることはなくなった。

あれから私は仕事や身の回りで辛いことがあるたびに、あの夜のことを思い出す。
気のせいだとは思わない。 確かに聞いたのだ。
今、私は再婚し、別の土地に移って元気に暮らしている。
きっともう、猫は飼わないだろう。
あの猫が、私にとって唯一の猫なのだから。
ただ、叶うなら、夢でも気のせいでもいいから、もう一度会いたい。

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