あの夏

その日は朝からバタバタしていた。
小学5年生の夏休みのある日の朝。
母はすでに身支度を済ませて、僕を静かに起こすと、今日僕が着る服を用意しながら、「もう少し時間あるけれどもう一度寝てしまわないようにね」と注意して、続けて、「怪我はどう?大丈夫?」と左腕と左足に巻かれた包帯にチラッと目をやると、僕の「うん、大丈夫」という答えも聞くか聞かないで足早に出かけてしまった。
母は同級生のお母さんたちと合流してお手伝いがあるからということで、もう出かけなくてはいけなかった。
僕は朝ごはんや顔を洗って歯を磨くなど、朝のひと通りを済ませると、自室に戻っていそいそと着替えを始めた。
大丈夫とは言ったけれど、まだ怪我をして3日目で痛みは残っていたし、腕を袖に通すために肩に捻りが加わると痛かった。
ネクタイは紐を首の後ろで繋ぐだけのボタン式だったのだけれど、それもなんだか手が震えて、たったそれだけのことがうまくできなかった。
でも、手が震えるのは、怪我が痛かったからだけではなかった。どうしても我慢できなくて、気づいたら手が震え、ポロポロ涙を堪えられずにいた。
そうしてなかなか出来上がらない着替えをノロノロとしていると、勝手口から僕を呼ぶ声がした。
声の主はすぐに誰だか分かった。同級生のカズちゃんだ。
田舎の小さな村で、子供自体の数も少なく、同級生は僕を入れて5人だけという中で、カズちゃんは特に家が近く、幼馴染みであり親友と言っていい存在だった。
僕は慌てて涙を拭って「はーい」と返事をするとカズちゃんは当たり前のように家に上がってきて、バタバタと元気よく一直線に僕の部屋まで来た。
「よぉ、ちー坊、おはよーー」
カズちゃんは元気いっぱいだった。
朝からハイテンション、というか、常時このテンションだったと思うけれど、とにかくマンガのガキ大将そのままの子だった。
「カズちゃんごめん、今日は、、遊べないんだ。出かけなくちゃいけない」と僕が告げると、 「え、そうなのか。、、、そういやちー坊どうしたその格好、おめかしして」
「うん、お母さんがこれ着なさいって」と僕が答えると カズちゃんは僕がやっとの思いで付けたネクタイをツイっと掴んでひらひらしたりくいくいと引っ張って、悪戯っ子そのままの顔でニカっと笑った。
「そっかぁ。この前山に行ったから今日は海に行こうかと思ってたのに残念だな」 と言うと、続けて、
「それに今日はなんだか朝から家のみんながバタバタ忙しそうでさ、さっきからお客さんも来たりして騒がしいからちー坊んとこ行くーって出てきちゃったんだよ。遊びたかったんだけどな」
と言いつつチェッと舌打ちすると、 あからさまに声の調子を落として
「じゃあ、帰るかー」 と、少し眉を寄せて口をへの字にして残念そうに言うと、僕を下から足、腰、腕、と視線を動かして、最後、目をジッっとみると、またいつもの満面の笑みに戻って
「なかなかきまってるよ。かっこいいな。じゃあまたな」と言うと、 スッと、消えた。

3日前。僕とカズちゃんは山に遊びに行った。そして、何かがあった。まったく覚えてはいない。
おそらく自転車で大きく転んだかで山を転げ落ちたのではないかという形で2人揃って倒れているところを近所の人に発見され、揃って同じ病院に運ばれた。
そして僕は左腕と左足に打撲や擦り傷を負って包帯をぐるぐる巻きにされ、 カズちゃんは、死んだ。
今日はカズちゃんのお別れ会だ。 母は先ほど、先に準備に出かけた。 僕もそろそろ出かけなきゃいけないな。
どうしようもなく悲しくて寂しくて苦しくて、すごく行きたくなかった。
2つ上の姉が準備を終えて、僕を促して用意された黒い靴を僕に差し出した。
カズちゃんの家に着くともうたくさんの人でいっぱいだった。
台所の奥から喪服にエプロン姿の母が出てきて、「来たわね。大丈夫?」と声をかけてくれた。
「うん」
カズちゃんが遊びに来たんだよって言いたい気もしたのだけれど、なんだかそれは言っちゃいけないことのように思えて、ただ「うん」とだけ答えた。
「あら、ちひろ、ネクタイどうしたの、一緒に置いてあったでしょう?」
母は、僕の胸元を見ながらそんなことを言った。
あれ?さっき確かにつけたのに。痛い手を我慢して苦労してつけたのにな。おかしいな、と思いながら自分の手を首回りに回してみて、ねじれているわけでもないと確認したりした。
「ん、まぁ、いいわね。シャツのボタン、一番上までしめなさいね」
母はそう言うとまた台所の方へ戻っていった。
姉と一緒に奥の座敷に座り、別に食べたいわけでもないのにお菓子をつまみ、飲みたいわけでもないのにお茶を飲んだりしていると、カズちゃんのお母さんが来て、「カズの部屋、見に行く?」と声をかけてくれた。
一緒にカズちゃんの部屋に行くと、「欲しいものあったら持って帰っていいからね。いままで、いっぱい仲良くしてくれて、、本当にありがとうね」とそっと僕の肩と頭を撫でて僕を部屋に残して先に出ていった。
何回も何十回も遊びに来て慣れ親しんだカズちゃんの部屋は、その主人を失ってもなお空気も匂いも存在感も一切失わずにそこにあった。
涙が出て、どうしようもなく寂しくて、その涙を止めることができなかった。
欲しいものなどなにもなかった。何かモノで埋められるようなことではないのだ。
何かを思い出の品にしようとか、いつかきっと振り返って懐かしむなどとは到底思えなかった。
カズちゃんがもうここにいないことが一番大きくて一番大事なことだった。

ふと、机の上の小さな本棚が気になった。
僕たちは本や漫画やゲームなど色々なものを貸し借りしていた。その中で、とあるお気に入りの漫画があって、それを集めるために僕たちはお互いの少ないお小遣いで新刊が出ると交互に買ったり、時には二人でお金を出し合って買ったりして集めていた。
もはやどちらに所有権があるとかそういうことではない、二人の漫画だった。
その漫画はまだ未完で、そうか、カズちゃんはもう続きが読めないんだとか、これからは僕ひとりで揃えていくのかななどとぼんやり考えているとまた勝手に涙がこぼれ落ちてきた。
2人で買いに行った日を思い出しながらその最新刊に手を伸ばそうとして、そこに黒い布がぺろっと垂れてきているのが目に入り、漫画を取るのをやめて、その布をそっと引っ張った。
黒い布はネクタイだった。
僕はすぐに理解して、カズちゃんめ、やっぱりカズちゃんだったか、なんだよ、せっかく苦労してつけたのにと泣きながら、笑った。
カズちゃんの遺影は、僕のよく知っている写真だった。この春の遠足の時、お弁当を食べているところを写したもので、遺影はもちろんカズちゃんだけを切りとって加工したものだったけれど、その横には僕がいるのだと僕は知っていた。
僕と並んで撮った写真。いちいち泣いてて困ったものだけれど、それを見て僕はまた泣いた。
お別れ会はなんだかぼんやりしたまま終わった。
眠っているカズちゃんは僕の知っているカズちゃんとは違う気がして、あまりちゃんと見れずに、じゃあね、さようなら、とだけ言って別れた。
火葬場まで行ってお骨も拾わせてもらったけれど、何もかもが本当のことじゃない気がしてぼんやりしていて、正直よく覚えていない。
ずっと泣いていたような気もするし、あらゆる感情を失っていたようにも思う。
そうして、お別れ会は静かに終わった。

お別れ会は済んだのだけれど、実はそのあとも僕はカズちゃんと何度か遊んだ。
カズちゃんは何事もなかったようにいつものように遊びにきた。
そして、僕は最初こそびっくりしたりあたふたしたりはしたけれど、何がどうなっているのかよくわからないまま、よく考えもせずに、前と変わらず山へ川へ海へと遊びに行ったりした。
時には母にひとりで行くの?と声をかけられたけれど、相変わらずカズちゃんのことは言えずにいたし、うん、ひとり、と言って遊びに出かけた。
何となくいつまでもこうして普通に遊んでいられるんじゃないかと思っていた。
確かにカズちゃんは死んだし、お別れ会もしたけれど、こうして変わらず楽しく遊んでいられるのが嬉しくて、深く考えるのがイヤな気がして、考えないようにしていたのだと思う。

そして、そうこうしてるうちに四十九日法要があって、納骨式があった。もちろんそれに僕は参列した。
カズちゃんと普通に遊ぶ日々があったせいで、この時はまったく泣くこともなく、淡々と執り行われる一連のことをどこか他人事のように眺めているような感じだった。
でも本当は。 でも本当は、この時にこそ、本当にお別れを言うべきだったし、めいっぱい泣くべきだった。
納骨からしばらくして、気付いた。カズちゃんが遊びに来なくなった。まったく気配すらも感じなくなった。
家の周り、山でも海でも、もう二度とカズちゃんに会うことはなかった。
もしかして、と思い巡らしたりしながらカズちゃんの家の前まで来てカズちゃんの部屋の窓を見上げて、そこにも何の気配も感じることができなくて、ああやっぱりそうなのかな、カズちゃん、成仏しちゃったんだ、と思い知って、その日、僕はまた泣いた。
今も実家に帰ると真っ先にカズちゃんの墓参りに行く。
胸ポケットから写真を取り出して眺めながら、あの夏を、何度も思い出すあの夏をまた思い出す。
写真は遺影にも使われたあの写真。もちろん切り取る前の一緒に写っている写真。
カズちゃんの「ちー坊」と呼ぶ声を思い出して、「うん、カズちゃん」と、僕も返す。
あの夏はもう二度とこないけれど、思い出は、消えない。

朗読: 思わず..涙。
朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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