これは、私の叔父が中学生の時に体験した話です。
50年以上は前の話になります。
叔父の家、つまり私の祖父の家は、いわゆる寒村集落の一角にあった。
今でこそある程度のインフラ整備がされているが、それでも居住するのはあまりオススメできない場所だ。 叔父が中学生だったころならば尚更である。
そして……その当時、家の近所に『アンドウの婆さま』と呼ばれている老婆がいたそうだ。
アンドウをどの漢字で書くのかは分からない。 叔父の話では、そもそも名字ではないらしい……との事だった。
だが不思議な事に、その呼び名の由来は親戚を含め、村の誰一人として知らないのだそうだ。
祖父や親戚にその老婆について聞いてみると「気味が悪い婆さんだったよ」 と、みんな口を揃えてそう言った。 気味が悪いというのも、その老婆には動物を殺すという悪癖があったのだそうだ。
猫や犬などに話かけたりして可愛がっていると思ったら、いきなり鎌で切りつけて殺したりしたという。
あまつさえ、ウズラや鶏といった他人の家畜にまで手を出した事もあったらしい。 もちろん問題にならなかった訳はなく、その時は警察沙汰になったと聞いた。
ただ、普通に可愛がってなにもしない事もあったらしく、そういうところも不気味だったそうだ。
その年の初秋、9月に入ってすぐの事。
叔父が学校から帰ってくると、大人達が何かを取り囲んで話し込んでいるのが目に入った。
何事かと思い覗いて見ると、そこには檻に入れられた1頭の猪がいたそうだ。
祖父が言うには、畑に仕掛けた罠にかかっていたのでそのまま生け捕りにしたとの事らしい。
「明日には締める」 という話になり、猪は宿便を出させるため倉庫に入れて翌日まで放置する事になった。
その日の夜中。 叔父はトイレに行きたくなり目を覚ました。
今と違い、一昔前の家はトイレが外にある事が多かった。 祖父の家も当時は外にトイレがあったそうだ。
そして、田舎の夜はとても暗い。 光源になるような物は月明かりと切れかかった玄関灯くらいだ。
用を足し終わり早足で家に戻ろうとした叔父だったが……不意にどこからか人の声が聞こえ、立ち止まった。
声がするのは猪が放置されている倉庫の中からだった。
倉庫の入り口は戸がない開けた作りになっていて、部外者でも簡単に出入りができてしまう。
(泥棒か…?)
そう思った叔父は恐る恐る倉庫の中を覗き込んだ……が、真っ暗で何も見えない。
だが、確かに誰かいる。 ボソボソと何かを話している。 叔父はじっとしながら聞き耳を立てた。
すると嗚咽のような猪の鳴き声に混じり、老婆の声が聞こえてきた。
それは……アンドウの婆さまの声だった。
冷たく抑揚がない、まるでお経のような声が暗闇から聞こえてくる。
……おめが畜生さ墜ぢだのは自業自得だ。
……おっがねぇど泣いだって仕方ねぇっぺした。
……なに、明日になっだら人だった事など忘れでるよ。
……オラがやらんでもこごのもんがおめば救っでぐれる。
…だがらな、往生しろ。 ボソリボソリ…
と、不気味な言葉を猪に語りかけている。
叔父は聞いているだけで歯の根が合わなくなった…と、話していた。
叔父がその場で固まっていると、不意に話し声が止まった。 そして、暗闇から視線を感じ叔父はハッとなる。
月明かりのせいで暗い倉庫の中からは外側がよく見えるのだ。
アンドウの婆さまがこちらを見て、ニィッ……と、笑った気がした。 叔父は恐ろしくなり、慌ててその場から逃げ出した。
翌日、猪は祖父達よって締められ解体された。
敷かれたシートの上に並べられていく猪の肉片を見ながら、叔父は昨晩の事を思い出し身震いがしたという。
そして、少し離れた場所からこちらを見つめているアンドウの婆さまの姿に気がつき、目を逸らした。
アンドウの婆さまは自分が盗み聞きをしていた事に気づいていたのだろうか。 気づいていたとしても、自分をどう思っているのかまったく分からない。
ただ。
……人さ話しだら、わがっでるなや。
アンドウの婆さまのそんな声が聞こえたような気がした……と、叔父は話していた。
結局、叔父は腹の調子が悪いと嘘をつき、その猪の肉を口にしなかったそうだ。
この話は以上になります。