山の茶会

 静岡にある山に、ハイキングに行った時の話だ。

 本格的な登山やトレッキングよりも、どちらかというと軽い山登りが好きな俺は、山の麓で買った弁当と、適当なおやつを買って、休日によくハイキングに出かけていた。
 ある日、俺はお茶の産地でもある静岡の、奥清水と呼ばれる場所に来ていた。
 目の前に広がる茶畑。 人の手で作り上げた風景だが、整然と刈り込まれた茶畑が、日の光を受けて輝くその姿には、ちょっと感動すら覚える。
 ふと辺りを見渡すと、道の端に、屋根つきの木造でできた長いすを見つけた。 どうやら休憩所らしい。
 ここで一息つくかと、俺は荷物を降ろし、長椅子に腰を掛けた。
 木陰の下、汗ばんだ肌をタオルで拭いながら、俺は持ってきた水筒の蓋を開けた。 新茶の時期にしか味わえない爽やかな香り、良い香りだ。
 そう思った時、 「夏も近づく 八十八夜~野にも山にも若葉が茂る~あれに見えるは茶摘みじゃないか~と」
 突然の歌声、振り返ると俺の右隣に、いつの間にか農夫姿の、八十ぐらいのお爺さんが座っていて、上機嫌に歌を歌っていた。
「ところでお若いの、この歌の八十八夜とは、何の事を指すかしっとるかの?」
 そしてこれまた唐突な質問を投げかけてきた。
 何なんだこの爺さんは?
 俺が呆気に取られ爺さんを見ていると、今度は左隣から、 「八十八夜とは、1年の季節の移り変わりを表す雑節のひとつで、立春から八十八日目の日の事を言うんじゃよ。この日に摘み取られたお茶を飲むと、一年間無病息災で居られると言われておってな、八十八夜は昔から春から夏へ移り変わる節目の日、夏への準備をする日とされ、農業ではなにかと節目となる縁起の良い日とされておるんじゃ」
 振り向くと、長ったらしいうんちくを満足げに説く、これまた農夫姿の、八十ぐらいの爺さんが一人。
「わしはこの若いのに聞いとったんじゃ、お主になんぞ聞いとらんわい!」
 そう言って、右の爺さんが身を乗り出しながら、左の爺さんに怒鳴りつけた。
 左の爺さんはそんな右の爺さんに負けじと身を乗り出し、 「わしだってお前に言うとるんじゃないわ、この若いのに教えてやっとるんじゃ!」 と、怒鳴りだす始末。
 もう一度言おう、何なんだこの爺さん達は?
 気まずい雰囲気の中、俺は持っていた水筒を口に運ぼうとした、すると、 「おや、新茶か。ふむ良い香りじゃ、どれ、」
 突如左の爺さんが俺の水筒を奪い取り、それをゴクリ、と自分の口に流し込んだ。
「なっ何するんですか!」
 たまらず俺が抗議すると、 「まあまあ」 と、なぜか右の爺さんが俺をなだめる様にそう言った。
「ほほう、良い茶じゃ。しかしまだまだ」
 偉そうに言ってから、左の爺さんは首を横に振り、水筒を今度は右の爺さんに手渡した。
 しかも右の爺さんはそれをさも当たり前のように口に運ぶ。
 しつこいようだが言わせてもらう、何なんだこのじじい共は?
「ふむ、なるほどな、確かに少し甘みが足りんのう」
 苛立つ俺を無視し、好き放題言うじじい達。
 流石に頭にきた俺は文句を言ってやろうと、右のじじいが持っていた俺の水筒を強引に奪い返した。
 そして俺が口を開こうとした瞬間、 「お若いの、どれ、これを飲んでみんかね」
「えっ?」
 後ろから声を掛けられ、俺は思わず返事を返し振り返る。
 左のじじいが、いつの間にやら用意したのか、ひょうたんに入ったお湯を、竹筒でできた湯飲みのようなものに注いでいた。
「茶葉の量を多めに入れてな、少し冷ましたお湯を入れるんじゃ、そして少しだけ待つ」
 呆気に取られる俺を余所に、左のじじいはわざわざ解説を交えながら、蒸した茶葉を取り出した。

  1分程たっただろうか、 「よかろう、ほれ、飲んでみい」
 そう入って左のじじいが竹筒の湯飲みを俺に手渡してきた。
 程よい熱が、俺の手に伝わる。 俺は押されるまま、それを口へと運んだ。
 瞬間、俺の鼻腔を芳醇な香りが突き抜けた。 そして口に広がるまろやかな甘みと、爽やかな茶葉の味わい……
「美味い……!」
俺の口から思わず漏れた声。 その声に反応するかのように、左のじじいいが、 「ははははは、よきかなよきかな」 と、高らかに笑う。
 すると何が気に食わないのか、突然右のじじいが、 「ふん!何を言うか、こっちの茶も飲んでから言って貰おうか!」 と、怒り心頭といった顔で、これまたどこから取り出したのやら、ひょうたんと竹筒を用意し、お茶を入れ始めた。 しかもこちらはお湯ではなく水だし茶のようだ。
「沸騰させたお湯を冷まし、細かくした茶葉に注いで取った茶を、数時間寝かせたものじゃ、ほれ、ぐぐいと」
 そう言って、またもや押されるようにして、俺は竹筒の茶を口に運んだ。 暑い夏にふさわしい、爽やかで涼しげな色のお茶、そして口に入れた瞬間に広がる、自然の甘味と爽やかな後口。
 これも……
「美味い……!」
 何なんだこのお爺さん達は!?
「どうじゃ、やはりうちの茶葉が一番と言ったところかのう」
 右のお爺さんが満足げに言い放つ。 すると左のお爺さんが、 「何をぬかしおるか、わしの茶葉が一番じゃ!」 などと猛抗議。
 何だか雲行きがあやしくなってきた、どうしたものかと焦っていると、 「おや、珍しい湯飲みをお持ちで」
「えっ?」
 突然の声に振り向くと、俺の目の前に、麦藁帽子を被った六十くらいの年配の男性が立っていた。
「えっ?あ、俺……ですか?」
 聞きなおすと、年配の男性は柔和な笑みを浮かべ頷いて見せた。 いや、今はそれどころではない。 とっさに両隣を見回す、が、 いない。
 お爺さん達の姿が、まるで煙のように掻き消えてしまった。
 開いた口が塞がらないとでも言おうか、俺は口を鯉のようにパクパクとさせながら呆気に取られてしまった。
 残されたのは、俺の手に握られた竹筒の湯飲みだけ……
「い、今お爺さん達がいませんでしたか!?こ、ここに」
 俺は慌てて麦藁帽子の男性に尋ねた。
「えっ?いや、さっきからあなた一人でしたけど……?」
 そう言って男性は不思議そうにして辺りを見回した。 俺も釣られて辺りを見回す。
 すると俺の背後にある土壁の辺りに、ある物に気がついた。
 地蔵様? そこには、赤い前掛けをした石彫りの、古いお地蔵様が二体収められていた。
「このお地蔵様は……?」
 俺がそう尋ねると、 「おや、そこのお地蔵様が気になりますか?」 と、男性は少し楽しそうにしながら、このお地蔵様について、こんな話を聞かせてくれた。
「この辺りには昔、二つの村がありましてね、丁度ここが村と村の境となっていたんですよ。ところが見ての通り、良質なお茶の産地でもあるここでは、お互いが自分の村の茶が一番だといがみ合っていましてね。 そのうち村同士の確執はひどくなるばかりで、ついには怪我人なんかもでる始末、そこで互いの村の代表が話し合い、とある徳の高いお坊様に相談したんだそうです。 するとお坊様は、この二体のお地蔵様を村の境に祭ることで、お地蔵様がちゃんと見ているぞと、まあ監視役のようなものでしょうか、以来、村と村の間でいざこざが起こると、何かとお地蔵様の天罰が下るようになり、それを恐れた互いの村人たちは、次第に争うのをやめ、互いに協力し合うようになったとか」

 話を聞き終え、俺は持っていた竹筒に視線を落とした。
 すると男性は付け加えるように口を開いた。
「この辺りでは茶摘の時期になると、あのお地蔵様に、竹筒でできた湯飲みに、できたばかりの茶を入れてお供えする習慣があるんですよ。いやあ、私も長いことここに住んでいますが、あなたのその竹筒の湯飲みを見て、ちょっと思い出しちゃいましてね、ついこんな長話を、ははは、では、私はこれで」
 男性は愉快そうに笑いながら会釈をし、その場を去って行った。
 その場に残された俺は、持っている竹筒とお地蔵様を交互に見続け、やがて、 「もしかして、あのお爺さん達は……ふふ、はは、」
 俺はそう呟くと同時に、何だか可笑しくなり、思わず笑ってしまった。
 監視役だったお地蔵様が、いつの間にか村人と同じように、自分の方のお茶が美味いと自慢し合っていただなんて、当時の村人たちが聞いたら怒るだろうなと、ふと思うと、何だかさっきのお爺さん達が可愛く思えてきた。
 しかし、いがみ合う村人に天罰下しといて、自分達は今でも喧嘩してたんじゃあ……
 俺は苦笑いをこぼしながら、お地蔵様の前に座りなおした。
「お茶、とても美味しかったです。両方とも。また来年来ますので、お二人のお茶、楽しみにしてますね」
 そう言って、俺はおやつにと取っておいた串団子を二本供えると、手を合わせそっと目を閉じた。
 その瞬間、 緩やかな風が、ふわり、と俺の頭を撫でると同時に、 「よきかなよきかな」 と、囁く様な笑い声が、どこからともなく聞こえ、風と共に掻き消えていった。
 目を開け顔を上げると、供えていたはずの団子が無くなっていて、空の串だけが、コロンと乾いた音を立てながら、転がっていた。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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