幽霊を見た

 友人のKから聞いた話である。
 もう二十数年来の付き合いになるのだが、彼は超が付くほどの怖がりである。具体的には幽霊や怪談といった類のものが本当に駄目だ。
 普段はおちゃらけていて皆を常に笑わせているような性格なのだが、偶に集まりで怪談が始まったりすると、冗談抜きで帰宅してしまう程だ。
 その嫌いの度合いは筋金入りと言っていいほどであり、怪談噺の類はもちろん、ホラー映画などその一切合切を鑑賞したことが無く、お化け屋敷、ホラーゲーム、果ては迷信なども苦手というほどである。
 勿論意図的に避けているからそういったものに触れる機会も当然無くなり、オカルト方面の知識は乏しい……はずなのだが、知識欲という意味では彼の興味の対象になるらしく、例えば「幽霊とはどのような存在か?」という議論には少し首を突っ込んできたりするという、良いと悪いの線引きの測り方が分からない奴である。
 この話からその後どのように会話が発展するかで、その日Kが私の家に泊まるか泊まらざるかが変わる。「そういえばあそこの有名な心霊スポットで……」という話に発展すると彼は帰宅する。逆に「幽霊の観測を哲学的に解釈すると……」というような話になれば泊まっていく、という具合だ。
 要するに、彼は幽霊をとても恐れている。可能であれば一生その姿を拝みたくないそうだが、これ幸いなことに霊感などは無く、今まで幽霊のようなものを見たこと、感じたことは一度もないそうだ。
 しかしその日、Kともう一人後輩のFを招き、私の家でたこ焼きを嗜んでいた時の事。
「聞いてくれよ。この前ついにさ、幽霊見ちゃったんだよ」
 何の脈絡もなくKがそう言い、あまりの衝撃的発言に私は担当していたたこ焼きをふっ飛ばしてしまうところだった。FもKの幽霊嫌いは承知していたので、目を剥いて固まっている。

 先日大雨が降った日の夜、Kは予約していた歯医者の帰りで、夜の道を車で走っていた。
 大雨は夜になってから小雨に変わってはいたが、依然窓ガラスを雨粒が覆い尽くしてくる。ワイパーが規則的にそれを払い除ける。虫歯治療の後だったため、Kは治療後の痛みに集中力を削がれてしまっていた。好きな音楽をかけることも忘れ、車内に響く音はワイパーの音と、時たま水たまりを跳ねるタイヤの音だけだった。
 気がつくと高架下のトンネルが目前に迫り、視界が一瞬狭まった。そこでKは少し焦って集中を取り戻し、雨の夜の運転は気をつけなければと姿勢と共に気も引き締めた。
 トンネルの先を上がっていき、住宅街に抜けたところで唐突にそれは現れたという。狭いトンネルで狭窄した視界が広まった時、左側の歩道で何かが揺れた。
 白くぼんやりと浮かび上がったそれは一瞬何なのか分からなかったが、距離が近づくにつれて正体がわかった。夜の闇に浮かぶ白いTシャツだった。
 思わず視点をTシャツに合わせると、上には後頭部が乗っており、両腕が生えているのに気づく。どうやら男性のようだった。が、下半身は見えない。
 不思議に思っていると、それは突然左に向いた。両腕を前にだらりと差し出したような格好で、すぅっと揺れずに左にスライドした、という言い方のほうが正しかった。
 Kはぎょっとした。歩行者はあんな曲がり方はしない。人間の歩くときの揺れの特徴がない。そこでKは思い出したくもない友達の会話を思い出す。幽霊は、スライドするように移動することが多い、そう聞いてしまった時があった。
 既に視界から消えたその人物を追い、曲がった角に差し掛かった時、思わずKは徐行した。心臓の鼓動はもう既にものすごい勢いで胸を叩いている。
 幽霊だ。幽霊を見てしまったのだ。頭の中はそれでいっぱいだった。
 恐る恐る、あの人物が消えた先へ左折してしまった。自分でも何でなのかは分からなかったが、徐行を開始した時点でハンドルは左に切っていた。ヘッドライトで照らされた先、予想に反して再び視界には白いTシャツが浮かんだ。
 まだいる! 幽霊は突然現れて突然消えるものではなかったのか?
 すると突然、その人物は何もない道路を突然横断し始めた。目の前に飛び出してきたそれに驚き、思わずKは急ブレーキを踏む。強い衝撃と共に車は止まり、前方に目を向けるとそこには──。
「キックボードに乗った兄ちゃんだったんだわ」
 Kから怪談話が聞けるなど明日は雪が降るのではないかと思って興味津々に聞いていた私達は、そこで面食らってしまった。
「そりゃさ、横にスライドもするよな。キックボード乗ってんだから」
「幽霊じゃあないじゃないっすか!」
 Fが思わずそう突っ込んだ。私もそう言いたかった。Kを見ると彼はニヤニヤと笑みを浮かべている。そうだったと私は思い出す。彼はおちゃらけたいたずら好きだったのだ。まんまと誂われたと知り、私はKの肩に拳を飛ばす。
 聞けば、二十代も後半に差し掛かった今、怪談や幽霊の類への耐性がついてきたのだという。初心者向けの比較的易しめなホラーコンテンツを始め、怪談話のような静かに聞くタイプのものへは怖がりもしなくなってきたそうだ。
 確かに怖く感じる事もあるのだが、本当に目を背けたいような衝動に駆られることはもう殆どないと言っていた。
 それから、スライド移動する幽霊の話から派生し、キックボードの事故、キックボードよりも原付き、バイクのレストア、色々な話へ派生していった。

 そうして夜も更けてきた頃、コンビニへの買い出しに行くことになった。たこ焼きは食べ終わり、小腹の空いたFが駄々をこね出した為だ。
 もうすぐ秋が始まろうかという季節、外を吹き付ける風は冷たく、思わず身を震わせる。
 Kの車に乗り込み、コンビニへ向かうその道すがら、なんだか既視感のような感覚を覚えた。なんだろうと窓の外へ目を向けると、道端に置かれた花のようなものが一瞬目についた。定かではないが、献花のように見えた。
 そして、既視感の正体はすぐに判明した。
「え、ここじゃないっすか? Kさんの話の」
「あ、そうそう丁度この場所」
 その言葉で正面に向き直ると、車は高架下のトンネルへ差し掛かっていた。どうやら、件の話の現場だそうだった。確かに怖がりでなくとも何となく不安を覚えそうな、無機質で暗い雰囲気の場所だった。
「で、ここを左にすーって……え?」
 急にKが驚嘆の声を上げる。後部座席にいたFがどうしましたと身を乗り出してくる。私もKを見ると、見開いた目で視線を左側に固定している。
 それを追っていくと、トンネルを抜けた曲がり角の先、闇夜に浮かぶ白いTシャツが見えた。私もKもFも、同じ方向を目で追っている。
 とてもではないが、私にはそれが生きた人間だとは到底思えなかった。背中にリュックのようなものを背負い、確かにキックボードを蹴ってスライド移動してはいるのだが、問題は白いシャツの上に乗る頭部だった。それは後頭部ではなく、こちらを向いた顔だった。
 身体は向こう側にキックボードを蹴って移動して離れていく。だが顔はこちらを向いている。真反対を向いているのだ。あり得なかった。
 Kが思いっきりハンドルを切って左折し、その人影を追った。目線が激しくずれて、一瞬視界から消えてしまう。車がその道をヘッドライトで照らした時、話に聞いたとおり人影は道を横断していた。右側の細い路地に入ろうとしているようで、改めて見ても首は後ろを向いていた。
 路地へ入って見えなくなる瞬間、首は一瞬こちらを向こうとしていた、ような気がした。誰も何も喋らず、Kは車を停めてしまっていた。唖然とした顔でこちらを見ている。

 その後コンビニへは向かわず一直線で私の家に逃げ帰り、三人で震えながら夜を明かしたのは言うまでもない。
 Kが前に見た人影は確かに人間で、横断する時急ブレーキをしたKにぺこりと頭を下げて申し訳無さそうに謝っていたところまで見ているから間違いないという。
 では、私達が見たあれはなんだったのだろう。
 Fがその数日後に調べたところによると、詳しくはわからないが、あの場所付近で事故か何かがあったらしい事だけは分かったが、本当に人が亡くなる事故だったのかは分からない。
 後に私が自分でその高架下のトンネルへ向かった時、あの夜見たはずの献花らしきものも何もなかった。
 私達三人があの夜見たものは一体全体何だったのか、今でも分からない。
 ただKは、あの日から再び幽霊や怪談が苦手になってしまった。

朗読: ゲーデルの不完全ラジオ

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