しなるとき

 職場の同僚のK子さんは、二年ほど前にご主人の転勤に伴い、息子さんと共に引越しをしてきた。
 K子さんは、明るくてとても気さくな方だったので、次第に色々と話をするようになったのだが、最近では、少し元気がない様子に見えた。
 そうして、私も知らなかった、ある意外な話を聞くこととなった。

 彼女は引越しの片付けも終わり、仕事にも慣れて、ようやく落ち着いた頃、趣味のランニングを再開したという。
 家の前の土手沿いにコンクリートの堤防があり、幅80メートル程の大きな川がある。
 彼女は、仕事や天気の状況により、毎日ではないが、夕方、殆ど散歩に近いような速度で土手を走っていたとのこと。
 そうすると、会話こそしないが、数名の顔馴染みが出来たそうだ。
 その中に、いつも土手のアスファルトの上に腰掛けて、川を眺めるお爺さんがいて、必ず目に留まったとのこと。
 その表情がとても寂しそうで、なんというか、顔色がまるっきり土色で、少し気味が悪かったからだそうだ。
 そうして、お孫さんらしい男の子が迎えに来て、支えられながらゆっくり帰っていくのだそうだ。

 それから季節も代わったある日、他県から友人が遊びに来て、彼女は、せっかくだからと、川の対岸にある有名な観光スポットの中のレストランに、友人を連れて行った。
 対岸ではあるが、橋を渡らなければならないので、車でぐるっと遠回りして向かった。
 レストランに入ると、ちょうど窓側の席が空いていて、K子さん達は、川を見下ろすように席に着いた。
 そこは、川が少し手前に窪んでいて、大きな吹き溜まりのようになっていた。だから、枝や葉などの川の漂流物が溜まり、時々、それらが渦巻いていたそうだ。
 料理が運ばれてきて、K子さんと友人は、それを食べながら、近況報告や共通の話題などで盛り上がったという。
 そして、デザートが運ばれてきた頃、K子さんが、ふと窓の外を見ると、老人が釣りをしているのが見えたそうだ。
(吹き溜まりだから、よく釣れるのかもしれない)
 K子さんは、そんな事を考えながら、その老人をよく見ると、なんといつも土手に腰掛けていたあのお爺さんに酷似していたので、ガン見してしまったという。
 最近では、土手で、お爺さんの姿を全く見ていなかったので、もしかしたら寝たきりになってしまったのではないかと心配していた。
 それがまさか、この対岸まで来て、釣りが出来る程、元気になっていたとは驚きだったのだそうだ。
 すると、お爺さんの竿がヒットして、何か獲物が掛かったかのように、しなったそうだ。
 K子さんが、思わず、 「あっ、釣れた」 と言うと、友人もつられて外を見た。
「何? 何? どこ? どこ?」
 K子さんが、 「あそこで釣りしてるお爺さん、知ってるわ」 と言うと、友人が改めて外を見て、 「そんな人いないよ」 と言ったという。
 K子さんも再び外を見て驚いた。
 そこにはお爺さんどころか、誰もいなかったそうだ。

 その翌日、その場所から水死体が発見されたとのこと。
 警察やら消防やら沢山の方々がきて、水死体を引き上げていたそうだ。近所の方々が集まって、対岸を見ていたらしく、仕事から帰ったK子さんにも、教えてくれたそうだ。
 K子さんは、昨日、そこで友人と食事をした事を思い出して、気分が落ち込んだという。
 もしかしたら、あの釣りをしていたお爺さんが、水死体を引き寄せたのではないかという思いが、頭から離れなかったそうだ。
 K子さんは、今、その場所に住まいを選んだことをとても後悔しているのだという。それは、川の怖さを目の当たりにしたからだ。
 引越しをして、初めの頃は、全く理由も分からなかったのだが、見たり聞いたりしていくうちに、ようやく分かってきたことだった。
 時々、早朝から、川の上をヘリコプターが飛ぶ。それは、前夜の上流の橋からの飛び込みや事故を意味していた。
 北から南へと流れる川は、K子さんの家から500メートル程先で、西からの川と合流する。すると川幅は更に広くなって、深さも増す。
 そのため、K子さんの家の前辺りでは、合流する水の勢いで流れが滞り、対岸に数ヶ所の吹き溜まりが出来ていた。
 ここに上流から流れてきた漂流物が留まるのだという。 人も同じ。
 ヘリコプターは、その辺りを入念に捜索する。すると、流されてきた人が、見つかることがあるらしい。
 早朝からヘリコプターの轟音で目覚めた朝は、布団の中で (ああ、またか) と思うそうだ。
 また、同じく川沿いで怖いのは、上流で大雨が降ると川の水位が一気に上がり、氾濫すること。
 対岸の桜並木でさえ水没して、堤防から見ると、川幅が一気に増す。そして、川の中央がこんもりと盛り上がって、今にも溢れてきそうな勢いの早い流れに、恐怖した事が度々あったのだという。
 それに関連して、川沿いの住宅地には鳥居が沢山ある。数えたら八つもあったそうだ。
 鳥居の奥には大小様々の祠があり、大切に管理されているとのこと。
 その半分は個人の敷地内に作られたもので、調べてみると、やはり川の氾濫と大火事の歴史によるものらしかった。

 その後、立派な堤防が作られて、今のところ、水位が上がっても川が氾濫することは無くなったそうだ。
 K子さんの家の対岸は、桜並木で全国的にとても有名な観光スポットである。
 だから、その季節には、とても素晴らしい情景を眺めることが出来た。
 K子さんもそこに惹かれて住まいを決めたのだが、桜並木の美しさとは対照的に、川は命をのみ込んでしまう。
 そして、人知れず流された水死体などは、誰も探さないので、長い間吹き溜まりに留まり、そのまま形が崩れて、発見された時には、性別すら分からないこともあったらしい。
 そういった水死体は身元の判明も難しく、無縁仏となってしまうそうだ。
 地元の人々は、桜並木をとても大切に思っている。だから川のダークな部分の話は、無意識のうちに避けられていたのかもしれない。
『水死体が流れ着く場所であること』

 朝、K子さんは、出勤の為玄関を出る。嫌でも川の対岸が見えるのだという。
 散歩する人々、サイクリングロードを走る自転車、そして時々、薄いもやの中に釣りをするあのお爺さんが見えるそうだ。
 どうやらK子さんにだけ見えているらしいとのこと。
 K子さんは、引越し先を探しているとのことだった。

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