向こう側の犬

 中学2年生、秋頃の話。

 その当時は、テレビよりも深夜ラジオの方に面白みを感じていて、毎夜ベッドに寝転がりながら、イヤホンなどは着けずに、親に怒鳴り込まれない程度にボリュームを絞ってひっそり聞いていた。
 ベッド横にある窓は、カーテン越しに月の明かりが透けていて、窓の外から犬の遠吠えが小さく聞こえていた。
 我が家は碁盤の様に区画整理された新興住宅地で、その犬は住宅地の中央を縦断する大通りの向こう側のブロックに居るんじゃないかと、聞こえてくる音量や方向から推測した。
 ラジオが聴きづらくなるほどの騒音でもないので、気にせずラジオに集中していた。
 やがてエンディングテーマと共に番組が終了し、ラジオを消して寝ようと仰向けになって肩まで布団を被った時、また犬の遠吠えが聞こえた。 またというか、ラジオを聞いていた間もずっと吠えていた気もする。
 さすがにこんな夜中に2時間近く吠え続けていたら近所迷惑になるだろう。
 誰も苦情を言わないのかなあ、などと思いながら遠吠えに耳を傾けていると、なんだか鳴き声の調子が変わってきた。
 何かに反応して吠えている感じというか、不審者に対して威嚇するような吠え方だ。遠吠えよりやかましい。
 これはさすがに飼い主なり、ご近所さんなりが対処するだろうと様子を伺うが、一向に収まる気配は無く、むしろどんどん酷くなってきている。
 もはや狂犬ではと思うほどに激しく、さらに鎖がジャラジャラするような音も混じっている気がする。
 頭の中に、鎖を引きちぎって逃げんばかりに首をブンブン振っている犬の映像が浮かぶ。映像の中の犬は雑種っぽい大型の赤毛の老犬だった。
 ガチャンッ!
 金属が弾け飛ぶような音がした。
 その途端、犬はハアハアという荒い呼吸を混ぜながら吠えだした。
 鎖が切れた? 走ってるのか?
 鳴き声が大きくなってきている。
 大通りのこっち側に向かって来ているということか。 それにしてもすごい速さで近づいてくる。
 こっちに……いや……こっちにと言うより、まるで我が家をめがけて近づいてきているように感じる。
 真っ直ぐ、確実に、我が家に。 というか僕に向かって吠え、走って来ているように感じる。
 なぜ? 僕はベッドの上で寝ているだけだ。
 なぜ? 碁盤のようなこの住宅地で一直線に来れるのだ。
 ジグザグにしか進めないはずなのに、まるで犬が居た家と我が家の間になにも存在しないかの様に向かってくる。
 いやいや、そんなおかしなことはありえな……ダーンッ!!!
 家ごと揺れるほどの衝撃。ベッド横の壁に犬が衝突した。
 カーテンが暴風の中の旗の如く千切れんばかりに暴れだす。
 窓は閉まっていたはずだ。 犬は狂ったように吠えながら壁を引っ掻いている。
 僕は逃げようとした。が、仰向けのまま金縛りになって動けない。
 こんなに犬がやかましくしているのに、家が揺れたのに、家族が助けに来る気配はない。
 ズズ……と布団が勝手にずり上がってきて、頭まで完全に覆われた途端、すごい力で布団が押さえつけられる。
 息が出来ない。
 消したはずのラジオからは男の怒声が大音量で流れている。 助けを呼ぼうにも声が出ない。
 意識が遠退いていく恐怖を感じながら、剣道部の高野山合宿で覚えた般若心経を頭の中で必死に唱える。
 すると、鼓膜がビリビリ震えて痛くなる程大音量の犬の遠吠えが部屋中に響き、ラジオからの怒声を掻き消した。
 途端に布団が軽くなり一気に足元までずり下がった直後、私の全身から金色の針のような無数の細い光がシャワーの様に天井に向かって真っ直ぐ伸びていく。
 そのなんだか荘厳で美しい光のシャワーに見とれているうちに金縛りが解けたので、がばっと上半身を起した。
 静かだった。 犬の鳴き声も男の怒声も無く、深夜にあるべき正しい静寂。 喧騒の余韻のような耳鳴りが微かにする。
 窓を見ると、カーテンがわずかに揺れている。
 カーテン越しに窓を指先で叩く。やはり窓は閉まっている。 カーテンを開ける勇気はない。
 家族が起きてくる気配はない。 親の寝室で一緒に寝たい気持ちだったが、中二という年頃が邪魔をした。
 結局、ベッドを降り、部屋を明るくして、毛布だけを身体に巻き付けるようにしてベッドを背もたれに、身を縮めて寝た。

 朝、消灯もせずに寝てなどと母に怒られたが、普段と変わりない様子にホッとした。
 昨晩の事を家族に聴いてみたが、もし本当にそんなことになってたのなら私たちも起きているはずなので間違いなく夢だと断言されただけだった。
 登校前に犬が暴れていた壁の様子を見てみた。
 少し引っ掻いたような傷があったが、あの暴れっぷりとは見合わないものだったので、前からついていたものかも知れない。
 家族の言うように夢だったのかもと思いながらも、現実で起こったような感覚は拭いされなかった。

 それから数年経ったある日、自分の幼少期のアルバムを眺めていて、一枚の写真が目に止まった。
 祖父の畑の畦に足を投げ出して座る三歳ぐらいの自分。
 それに寄り添うように伏せている犬。 祖父が飼っていた大型の老犬。
 名前はペス。 雑種だったがとても賢い犬で、私を見守るようにいつも傍にいた。
 危ない所へ行かないように行く手を塞いだり、時にはその背に乗せてくれもした。
 今更になって気付いた。
 あの日、頭に浮かんだ映像の犬は間違いなくペスだ。 だとすると、あれは私を襲いに来たのではなく、私に起こった奇怪な現象をペスが察知して助けにきてくれたのかも知れない。
 もう十年程前に亡くなったが、今も見守ってくれているということだろうか。
 記憶の中の、陽だまりで昼寝をしているペスにありがとうと呟くと、陽に暖まったペスの香ばしいようなニオイがした。

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