2024年の梅雨入りは、例年よりもだいぶ遅れてやってきた。
六月の終わり。もうじき夏を迎えるというのに、まるで夏と私の間に帳を下ろすかのように、雨はせわしなく降り注いでいる。
梅雨の湿気と寝ている間にかいた汗とが混ざり合い、じんわりと肌を蒸らした。
一人暮らし用のベッドに敷き詰められた羽毛が濡れて萎れているのを全身で感じた。
おもむろに取ったスマートフォンを眺め、大学の時間だと知ると、K子は気だるげに起き上がった。
案の定汗で背中に服が張り付いており、K子は部屋着を脱ぎ捨てた。
重い布の落ちた音を無視し、簡単な朝食を漁りに戸棚へと向かう。
部屋の隅には、腰ほどの小さな冷蔵庫が置かれている。
しかし、普段K子は朝と夜をパンやコンビニ弁当で済ませているため、中はあまり潤沢とは言えなかった。栄養の偏りが心配になる。
「…………またか」
心の中の言葉が、思わず声が零れてしまったようだった。
K子はもう一度戸棚に置かれた軽食を眺めた。
戸棚には、六本入りスティックパンとカップ麺。冷蔵庫の中には色々な味を楽しむためのブルーベリージャムとイチゴジャム、牛乳、後は気休め程度のサラダのパックが買い貯められている。
それは、一見いつもの見慣れた光景のように思えた。
K子が違和感に気づいたのは、ほんの一週間前のことだった。異変が起きたのも、そのくらいである。
朝食にスティックパンを食べる時は必ず二本食べていた。だからスティックパンの残りの数は偶数になるはずだった。
しかし袋の中を数えてみると、三本。奇数だった。
ブルーベリージャムの減りも早かった。
スティックパンを食べる時、K子は出来るだけスプーンを洗わないように、その日の朝は同じジャムを使うようにしている。
同じ味が連続すると飽きるため大体ジャムは交互に味を変えていた。
今日はイチゴジャムの日だから、ブルーベリージャムの方が多少減っていてもおかしくはない。
しかし、イチゴジャムが半分程減っているのに対して、ブルーベリージャムがもう無くなろうとしているのは、奇妙であった。
カップ麺の置き方──少し前までは二つ重ねたものを三列に並べていたが、ピラミッド型に変わっていた──、牛乳の減り、閉まり切っていない蛇口、謎に増える体重。
些細なミスで済ませられるような、小さな異変が、ここ一週間積み重なっている。
…………まぁ、重くなってはいるな。
心でそう呟き、これを機に食生活を整えるべきだろうと私は思った。
K子は袋からスティックパンを二本取り出し、冷蔵庫のイチゴジャムを添えて食事を済ませた。
朝の支度は化粧だけでも、十分はかかるのだった。
家ではずぼらな生活を送っているが、やはり成人した女性として余所行きの支度は整えたい気持ちがどこかにあるのだろう。
薄い天井を雨水が催促するように、けたたましく叩き始める。
支度を終え、肩にかけたバッグに、乱雑に置かれたノートと、バラバラになったレジュメをさっとまとめて入れると、K子はそのまま傘を手にして玄関の扉を開けた。
その時、横に小さく隙間の空いた物入れを一瞥したが、すぐにアパートを後にした。
***
「それ絶対幽霊だよ!」
いやぁ、と苦笑いを浮かべながら、ストローでジュースを吸う。
残りが少なくなってきたからか、ストローの先が音を立てて空振った。
日本文学の講義が始まる10分前、私は同じ授業を取っている友達のA美にここ一週間で起きた奇妙な出来事を話していた。
ただ気を紛らわす程度の雑談だったので、「気のせいじゃない?」とか、笑い飛ばすような答えを期待していたのだが、どうやらオカルト好きだったみたいだ。
話す相手を間違えたな、と少しだけ後悔した。A美の質問攻めをあしらう内に、講義が始まった。
テーマは、江戸川乱歩の『人間椅子』。
物語は椅子の中に入り、座る人の感触を楽しむ顔の醜い椅子職人の男から、主人公の元へ手紙が届くところから始まる。
冒頭は男が椅子の中に入りたいと思った理由や、あるホテルの椅子として納品する椅子に自分が入れるよう改造したこと、人に座られることに興奮を覚えた旨が綴られるが、ラスト、実はその手紙を読んでいる主人公に一目惚れをしており、主人公が普段書斎で使っている椅子の中に入りこんでいる、という告白で手紙が終わる。
『人間椅子』という作品の話は何度か耳にはしていたが、有名だからこそ、読もうという気にはならなかった。
断片的に聞いた限りでは、背筋が凍るような嫌悪感を覚えたものだが、最後まで読んでみると、手紙に書かれた話が“人間椅子”という一つの作品であったというオチに安心した。
出席確認の代わりに出された課題シートを提出し、私は教室を後にした。
四限の講義が、講師の体調不良で休校になった。
正直休校課題を出される方が面倒臭いので、あまり喜べなかった。
電車の窓に映る雨はだいぶ穏やかだったが、四番ホームを下りると暴れ梅雨が激しく降り注いでいた。
傘の上で大粒の雨水が弾ける度、くぐもった音が鼓膜に張り付く。
路上に漂う湿ったアスファルトの臭いが鼻腔を刺激した。
自分の部屋に、幽霊がいる。馬鹿馬鹿しいと思った。
でも、私はどうしてもA美の言葉が頭の中で反響していた。
どこかで、本当に気のせいなのだろうかと疑う自分がいた。
というのも、私がこのアパートへ内見をしたとき、大家さんからある事件の話をされたことがあったからだ。
私が住んでいる204号室の家賃は、このアパートの中でも格安の部屋だった。
大家さんが言うには、あの部屋は所謂”事故物件”というものらしい。
なんでも、前に住んでいた家族が子供に虐待をしており、ご飯も与えず物入れの中に閉じ込めたまま放置したという話。
異変に気付いたアパートの住人が大家さんと部屋へ入り、事件が発覚したようだ。
子供は物入れに閉じ込めたまま遺体となって見つかった。子供の両親はその後逮捕されたらしい。
────身の回りに現れる異変が、そんな話を思い出させる。
思えば、部屋のどこかからか嫌な視線を感じることがあった。
狭い部屋の中で、他に誰かがいるはずはない。
しかし、確かにどこかからか気配を感じていた。
そして、気配を感じるのは、決まって後ろからだった。
アパートの丁度裏手にある細道に差し掛かる。
今いる位置は、アパートの真後ろ、窓が横並びに見える場所だった。
日が出ていれば吊り下がった洗濯物が見えるが、仄暗い部屋が見えるだけだった。
何となしに自分の部屋を探そうと視線を彷徨わせた。
204号室…………二階の左………
「え…………」
部屋の窓に、人の形をした黒い影が見えた。
暗いから……かな。
私は204号室の窓に目を凝らした。
下部のサッシは自分の腰くらいの位置にあるが、頭部と見られる丸い影は、そこから僅かに上だった。
丁度、小学生くらいの身長。 あの時、物入れの前で聞いた話が、脳裏を過った。
白く縁取られた黒目が、こちらをじっと捉えていた。
アスファルトに叩きつけられた雨音が途端に鼓膜へと押し寄せた。
背筋に感じた冷汗が、服の濡れた感触で上書きされるのを感じた。
きっと青ざめているであろう顔を、無理矢理、しかし無抵抗に道沿いへと向ける。蒼い紫陽花が柵の奥で色褪せていた。
ここの土地は酸性なのか。嫌に現実的な光景が、その時はひどく無機質に映った。
頭の中を整理しきれないまま、それでも身体は玄関の前へと運ばれていた。
鍵を探す手は恐怖で震えていた。大家さんのところに行って確認して貰おうか。でも、もし気のせいだったら。
小学生の幽霊がいるだなんて、どう話せばわかってくれるだろうか。
開けたくない言い訳を探す程、不思議と手は鍵穴へと向かっていた。
ガチャッ、解錠した音が聞こえ、私はそっとドアノブを引いた。
三和土に恐る恐る足をつけると、部屋の中を見渡す。
今朝乱雑に脱ぎ捨てたシャツは、形を崩したまま置かれていた。
洗い場のノズルも、やはり閉まっている。
しばらくして、私は何もいないと悟り、雨を十二分に吸い込んだ靴を脱いだ。
暗がりの中で、フローリングの軋む音と、小さい短息だけが耳に入った。
リビングを覗き込んでみるがベッドも窓辺も、特に変わった様子はなかった。
窓の外は雲に覆われた曇天が、部屋を青く色づけている。
溜息に似たものが口から出たのを、他人事のように感じた。
ぐしょりと濡れた靴下を脱ぎ、私は最後に、物入れに目をやった。
洋室の物入れは両扉を開くように取っ手がついていた。
収納スペースとしてはなかなかに使いやすいものであったが、事件のために物入れの扉は黄色いテープで塞がれている。
家賃はそれもあっての安さである。
私はあまり物を買わないため、不便とは思わなかった。
ただ、私が気になっていたのは、その物入れの扉に、それぞれ横に三本の細長い穴が開いていることだった。
朝洗顔するとき、顔を上げると鏡に映る物入れの穴が目に入る。
背後に感じる気配が、どうもそこから感じるのだった。
当然中に人が入っているわけではないだろう。それでも…………。
はみ出た黄色いテープの端を剝がしていく。
奇妙な出来事を感じてから、物入れだけは見ていなかった。
事件の話があってから、このまま非日常的な事実を押し込めていたように感じる。
最後のテープを剥がし終え、私はゆっくりと扉を開けた。
そこには────何もなかった。
掃除されていないがために溜まった埃が、開けた拍子に宙を舞った。
私は左右の扉をゆっくりと閉めた。あまりに拍子抜けな結果に脱力感が身体を襲う。
よろよろと足元をふらつかせながら、勢いよくベッドに倒れこんだ。
梅雨の雨がエンドロールに向かうように、天井に落ちる雨粒は外にいた時よりずっと弱々しくなっていた。
これなら四限の授業出てればよかったな。ぼんやりとそう思った。
結局あの影は気のせいだったのだろう。
この一週間に起きた出来事も、背後に感じた視線も。すべては思い込みだったのかもしれない。
ふと、講義に出てきた”人間椅子”を思い出した。
今思えば、物語に登場した作家の佳子は、まるで今の私のようだった。
あの読後感と同じ感覚になり、心から安心した。
課題をやろう。そう心に決め、ベッドに手をついて起き上がった。
背中に、人肌に触れたような温もりを感じた。