私の生まれ育った実家は、
家訓で『
そんな訳で、
今日は一番ごまだんごさん、、、
あれは今から23年前、自分が二十歳になる年の夏でした。
当時、札幌大通にあるデザイナー学園に通っており、
「食後によく冷えた黒ビール入りコーヒーゼリーを頼もう」
グバーン! と聞いた事もない『爆音』に襲われ思わずしゃがみこみました。
すると色彩鮮やかな夏の狸小路の景色が、
手前から奥へパタパタと白黒に
つぎに火傷するほどの熱風が自分に襲いかかりました。
「現実じゃない?」
とすぐに理解はできました。
現実の風景は白黒で見えているのですが、その上に濃い黒で、
黒い住宅から、次々と黒い人間達がでて来て逃げ回ります。
さらにけたたましいサイレンの音。
黒い人達が「助けてぇ~」「熱い!熱い!熱い!」「空襲!
「壕だ壕に逃げろぉ~」と叫びだし黒い人達が皆、
現実ではないと感じながらも、身を焼く熱風と轟音は恐ろしく、
黒い人達はラーメン屋向かいの店舗の磨硝子を通り抜けるように通
地下への階段をどんどん降りていきます。
自分はラーメン屋の前に立ちすくみ、
そして静寂、、、全くの無音。 白黒だった景色に、フワッと赤い光が小さく灯りました。
向かい店舗の磨硝子ごし、そこだけが赤いのです。
次の瞬間、磨硝子を「ピシャ!」と子供の手が叩きました。
『開けて~』ピシャ! 『お願い居れて~』ピシャ! 必死の子供の叫び声。
ピシャピシャと叩かれる磨硝子。
ピシャ!ピシャ!ピシャ!ピシャ!ピシャ!ピシャ!ピシャ!
『いぎゃぁ~』断末魔のような子供の叫び、
そこで幻覚は終わりました。
風景はまたトランプをめくるように奥から手前へと色を、
ただただ、立ちすくむ自分、全身が五感を取り戻し、
ふと看板をみると磨硝子のお店は凄く古いビリヤード場でした。
あの『赤い光』は幻覚や幻の感じじゃない、そんな確信があり、
店は奥に古いビリヤードがならび年配の店長らしき叔父さんが優雅
入り口の右手、
『あ、あぁ、これだ、これに呼ばれたんだ』 磨硝子の赤かった場所、そこに『それ』は置いてありました。
縦30センチ、横20センチくらいの縦長のガラスケース よく日本人形が飾られているフレームが黒いガラスケースです。
でも、中の日本人形は見たことがない異質な人形。
二人の姉妹。
妹は右目が飛び出し、
妹の右手を引く姉は、妹より酷く、
衣服はぼろぼろで赤黒い染みは血液の跡っぽく、
供養してあげなくては、と思いましたが値札には【十九万円】
夕方、家に帰り母が観てたニュースで
『
と流れてました。
『そうか、それで今日はあんな幻覚、いや、
50年、50年あの人形は苦しみ続けてるのかと思うと、
社会人になって20万を持って店にいきましたが、
10年ほどたち社会人になり印刷所で働いてた時に、
『原爆人形』と書いてありました。
製作者は不明なのですが、
その後、
今年で原爆投下から73年? 今も人形は助けてを求めてるのでしょうか?
リスナー様の家や、近所の骨董品店などに『その人形ならあるよ』
2件のコメント
うわ~掲載ありがとうございます。
親友と妻にだけは話ていたのですが、いざ活字にしてみると凄く難しく、細部を書けず歯痒い感じです。
姉妹の人形は二人ともモンペ姿でした、妹はおかっぱの上に防災頭巾をかぶり。姉の上半身はぼろぼろに焼けたシャツだったはずです。
明らかに重症の姉が、気丈に妹の手を引っぱる様子にいたたまれなくなる人形でした。
ビリヤード店はまだあります。看板にはビリヤードとありますが、今は骨董店になってます。
マルキンラーメンは一ブロックずれた場所に移転しましたが、ビリヤード店からすぐの場所です。
ジャズが流れるスタイリッシュなラーメン屋です。
広島には行ったことはないのですが、ふいに自分に巡った、原爆か空爆の体験でした。
とにかく立ってられないくらいの熱風と爆音でした。
私は広島の被爆二世です。
多くの家族親族を原爆で失いました。
そのせいか平和公園や原爆ドームを心霊スポットとかにされて騒がれたり、怪談にされる事に嫌悪感が正直あります。
ですが、この話には反戦の想いが感じ取れて、とても好感が持てました。
原爆症で亡くなった父や祖父たちや親族も、きっとこの話なら「いいね」をすると思いました。
いずれ、二人の祖父や父や母から聞いた本当の原爆の実話録をここに書くかは分かりませんが、どこかに書いて発表しようと思います。
きっと怪談より怖く、戦争反対の想いをされると思うような話ですが、厳密には私のは実録であって怪談とは言えないので……
またどこかで……
次の世代に語り残す為に……