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ゴースト・プロンプター

2017/8/20  投稿者 鏡太郎

劇場というのは、実に奇妙な空間です。

日々、観衆の前で繰り返される強烈な喜びや悲しみに満ちた非日常……ばかりが存在する場所。

そんな場所だからこそ、その瞬間を役として生きる俳優から、そしてそれを固唾を飲んで見届ける観客から発散される思念がコールタールの様に劇場の壁に、床に、天井に、奈落の底にまでベットリとこびりついているのでしょう。

演目が終わり、人がはけて、空の箱と化したその場所で、もしかしたら得体の知れない何かが、その日の劇を再現しているかもしれない。

そんなことを思わせるお話を一つ。

私の知り合いに、ご年配の女優さんがいます。

素晴らしい演技をされる大ベテラン女優の彼女ですが、特に凄まじいのは”台詞覚えの早さ”です。

台本を手にした翌日には、すでに半分以上台詞が入っているのです。

私はもちろんのこと、回りの共演者や付き合いの長い演出家さえも、彼女が台詞を違えたところを見たことがないとのこと。

以前、失礼を承知で台詞覚えの秘訣をうかがったことがありましたが、『よくよく台本を読みなさい』と一言。

しかし、あるとき、その彼女からこんな話をきいたのです。

『台詞がどうしても思い出せないときにね、舞台面(つら)の蹴込(けこ)みの隙間や舞台袖から、そっと教えてくれる子がいるんですよ』

蹴込みというのは、客席から見える台や階段の前面に張る板のこと。釘と釘の隙間から人間の指が二、三本、にゅっと出ていて、そこから台詞を囁いてくれるのだそうです。

舞台袖はまだしも、あんなところに人は入らない。

入ったとして、客に気づかれずに台詞を伝えるなど到底無理なことです。

怪談好きの私に話を合わせてくれたのかとも考えましたが、蹴込み板を見つめる彼女の愛おしそうな眼差しを見ると、どうしても作り話には思えないのです。

もしかしたら、毎日夜中まで稽古する彼女を見ていた”何か”が、いつの間にか台詞を覚えてしまったんじゃないか……なんて考えてしまうのです。

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