転勤により引っ越すことになった彼が入ったのは、新築マンションの二階の角部屋。
そこで三日も経たないうちに奇妙な体験に悩まされることになった。
夜中、なにかすごく恐ろしい夢を見ていて、耳元で怒鳴り声をあげられた「気がして」目が覚める。
何かの声をはっきり聞いているのではなく、大声を浴びせられたような感覚だけが耳に残っている。
目覚めたときにはどんな夢を見ていたのかも思い出せなかった。
真っ暗な部屋は静まり返っていて、ただ鼓膜だけがビリビリと震えている。
ひょっとしたら自分がうなされて大声を上げてしまったんだろうか。
そうも思ったが、何の確証も持てないままもう一度眠りについた。
この感覚はその一度だけの体験ではなく、その後もしょっちゅう続いた。
一ヶ月もしないうちに、今度はそうして目を覚ましたあと、真っ暗な床の上に蛇が見えるようになる。
黄色と黒のシマ模様がわさわさと動いてる。シマヘビ、に見えた。
新しい土地で頼る人もいなかった彼は、どんどん疲弊していった。
もう前の住人に何かあった部屋に違いないって確信はあるけど、三階に住む大家に聞いても、そんなはずはないって答える。
ここのマンションは新築ですよ、前の人なんていない、と。
たしかに作りは新しいし、不動産屋から紹介された際にも建てたばかりだと説明されていた。
奇妙な体験は日ごと頻度を増していき、その頃にはヘビが誰か、人にくっついているのが見えるようになっていた。
その誰かは彼の枕元に座っていて、蛇を首に巻きつけている。
はっきりそう認識できるようになって、それが蛇ではないことに気付いた。
ロープだ。
工事現場なんかに張ってある、黄色と黒のトラロープってやつ。
あれを首にグルグルと巻き付けた男が、ペタン、ペタン、とおでこを床に打ち付けている。
大声を上げられているような、鼓膜が震える感覚だけがする。頭がガンガンしてくる。
連日の睡眠不足からか、体調不良で仕事を早退し昼過ぎに帰ると、一階に住む独り身のおばあさんと顔を合わせた。
このおばあさんの部屋はしょっちゅうドアが開けっ放しになっていて、少し耳が遠いのか、つけたテレビの音が外まで丸聞こえになってる。
こう言っては何だが、新築マンションに住むにはなんか違和感のある住人だった。
すれ違うときに軽く挨拶を交わす程度だったが、何か分かるかもしれない、と話を聞いてみることにした。
すると、おばあさんは自分を前から住んでる住人だと説明した。
どうやら元は二階建ての木造アパートで、そこに大家が住むフロアを足して三階建てのマンションとして新しく建て直したらしい。
作りはたしかに新築なんだけど、一階二階は部屋数がそのままなので間取りもほぼ同じ。
前と同じ部屋に住んでいる、とおばあさんは言っていた。
じゃあ、ってことで自分の部屋のことを聞いてみると、やはり首を吊って自殺した若い男がいたことが分かった。
毎夜、彼が見ている男だ。
その一件を機に建て直しが決まったのだ、と。
部屋を出ることを決めて大家に直談判し、最終的に家賃をいくらか返してもらうことになった。
結局そのお金はそこから引っ越すためにすぐ無くなってしまうんだけど、引越し費用って結構かかるので負担が軽くなったのはありがたかった。
あの部屋にいる男の霊が居なくなることはないだろう。
彼はそう言っていた。
あの耳鳴り、耳の中が震えるビリビリとした感覚は、男が感じたものの追体験だ。
首にロープを巻き付けた男が、耳元で誰かに怒鳴り声をあげられながら、額が割れるほど床に頭を打ち付けて土下座をしている。
「自殺じゃないって分かって欲しいから出てくるんだよ」
日本では年間、少なくとも百人程度の他殺は、事故や自殺として処理されているのではないか、と言われている。
<了>
