先輩

少し長いですが、印象に残っている数年前の実体験をお話しします。

当時、私は地元のショッピングモールで婦人靴の販売員をしていました。
その日は平日の、特にセールやイベントもしていない静かな午後。
お客様も完全に途切れてしまったので空いた時間で品出し作業をしていた時です。

お客様が靴を試着された際に使用する姿見の鏡面越し、
一人の中年女性と目が合いました。 ほんの一秒か二秒程度です。
靴を見るでもなく、通り過ぎるでもなく、彼女は靴売り場の前の通路にただ真っ直ぐ立っていました。 なぜか軽く睨むような表情を私に向けながら。
咄嗟に『お客の私に気付きなさいよ』とイライラしているのだ感じ、いらっしゃいませと言いながら慌てて振り向きました。
しかし先程の場所に、女性の姿はありません。

あれ?と思いながら急いで通路に出ましたが、どこにも彼女がいないのです。
普通であれば隣の売り場にでも移動したと思うでしょう。
私はさり気なく両隣の売り場を覗きました。
けれど他の販売員が品出しや商品整理をしているだけで、やはりお客様の影は見当たりません。
私の勤めていた靴売り場は一階フロアの角。
立地的に両隣の売り場にいるお客様も十分見て取る事が可能でした

更に売り場の目の前には大きな吹き抜けと広い休憩スペースがあります。
通路の見晴らしの良さと相まって、大分遠方まで視界が開けていました。
たとえ全力でフロアの死角まで走り出したとしても、隠れ切るのは難しいはずなのです。
私が振り向いて通路へ出るまで五秒もかかっていませんから、視界のどこかに彼女の姿が見えなければおかしい状況でした。

一瞬目の錯覚も疑いましたが、錯覚にしては女性の姿は鮮明過ぎます。
人間と見間違えるようなものも通路にはありません。
これは『出た』かな、と私は売り場に戻りながら考えていました。

勤めていたショッピングモールは以前から『幽霊が出る』と従業員の間では有名で、店舗の屋上から投身自殺されたお客様も何人かいらっしゃるような場所でしたので、不思議もないかと思っていたのです。
とはいえ、怖がりな同僚もいましたし、この事は口外せずに勤務を終えて帰りました。

自宅に戻ってから、私はふと職場での出来事を母へ簡単に話しました。
母は家事の傍ら 「怖いねぇ。で、どんな人だったの?」 と尋ねてきました。
「うーん・・・背は私より十五センチくらい低くて、髪は肩の少し上。明るめの茶髪で緩めのパーマをかけてて・・・」
女性の容姿を思い出しながら説明するうちに、母の手が止まりました。
「濃い黄緑色のニットワンピース着てたなぁ。タイトな感じで、ちょっとだけハイネックになってるやつ。で、グレーのタイツ履いてた。足は細いんだけど少しお腹周りがふくよかな女性で、お母さんより若干年上かも。とにかくお洒落だった。何でか軽く睨まれたんだけどね」
そこまで言うと母の顔が完全に強張りました。

「それ、多分、私の職場の先輩だ」
などと言うので、私が思わず
「いやいや、最近亡くなった先輩なんていないでしょ?幽霊にしないであげて」
と笑うと、母は神妙な面持ちで切り出しました。
「アンタに言ってない事があるのよ。私が今の勤め先を退職したいって相談したの、覚えてる?」
私は頷きました。

確かに一ヶ月程前だったか、母から退職について相談を受けた記憶があります。
どうにも職場で先輩の一人と折り合いが悪く、けれども波風を立てずに辞めたいので、何かいい理由はないだろうかとの内容でした。
ちなみに勤務地が遠く、車を運転しない自分には通うのが大変だという事を退職の理由にしようとしたところ、上司や先輩に相当しつこく引き留められたそうです。
困り切って他の理由を探す母に、私は軽い気持ちで
「娘が近場で仕事しろってガミガミうるさくてかなわない。とでも言っておけば諦めるんじゃない?」
と話していました。

母はその翌日、私の提案した通り上司へ伝えて渋々退職を了承してもらったとの事でしたが、当の先輩から 「娘さん、どこにお勤めしてるんだったかしら?」 と妙な質問をされたと言うのです。
「それで、地元のショッピングモールですけど・・・って教えちゃって。だからきっと、見に行ったんだ・・・」
母は顔色を悪くしていました。
「私が先輩と折り合いが悪いって言ったのは、気味が悪いせいなんだよ」と。
母の語った内容は次のような事でした。

お互いに遠く離れた持ち場で作業しているため相手の姿すら見えないはずのに、こちらの作業を事細かく把握している。

他人の行動にやたら詳しいので試しに作業手順を入れ替えたところ、「なぜ今日は手順を変えていたの?」と尋ねられた。

・更衣室内に従業員用下駄箱があるが、先輩が休みの日に偶然いつもと違う場所を使用したら、翌日「普段使ってる場所より、こっちの方が使いやすい?」と昨日一度だけ使用した辺りを指差された、など。

最初の頃は母も、あれ?何でそんな事知ってるのかな?程度にしか思わなかったそうです。
しかしあまりにも『見ていた』ように語られる内容に段々疑問を募らせたのだとか。
うちの会社は従業員にローテーション制で持ち場が割り振られるの。どの持ち場が当たっても、忙しいからのんびりなんて出来ないのよ。他の人の仕事を見に行く時間なんて作れるはずがない。本当に見に来てたらサボりで片付くんだけど」
などと母は言っていました。

従業員の皆さんは全員主婦のため帰り際も慌ただしく、簡単な業務報告しか交わさずにすぐ帰って行くので、周囲の人間から聞き出すにしても不自然な状況だそうです。
「別に害がある訳でなし、って放っておいたらね、この前・・・」
母が先輩に決定的な不信感を抱いた出来事が起こったとの事。
「着替え終わって帰ろうとしたら先輩が私に怒鳴ったのよ。『何てものをバックに入れてるの!』って」 訳が分からず何の事か尋ねる母に、先輩は 『バッグのポケットの中にとんでもないものを入れてるでしょ!』 と目を吊り上げていたらしいのです。 「定期とポケットティッシュしか入ってないのよ?何か問題ありますか?って定期を見せたら更に怒って『違う!バッグの内ポケットの方!!』って更衣室から出て行っちゃって」
怒られるようなものなんて持って来てないわよ!と内心憤慨しつつ、一応バッグの内ポケットを確認すると、中に入っていたのは昔から持っているお守り。
しかも魔除けのお守りだったそうです。

あぁ、あの先輩には近づかない方が良いと、その時に母は確信したのだとか。
大抵どこの会社でも更衣室のロッカーは個人別で鍵もかけられると思います。
母の勤務先も当然そのような仕組みでした。
鍵をかけ忘れた事もなく、バッグの中など見せた覚えもないのに、
一体どうして先輩はそこにお守りがあると分かったのでしょう。

「今までは偶然か何かだと考えた事もあったけど、もうさすがに気味が悪くなってね・・・。お守りをあんなに嫌がるなんて余計普通じゃないでしょ?次の日、先輩がやたらニコニコして『昨日はごめんね~?あなた、お家はどちらのお寺の檀家?』なんて言ってくるのよ。怖すぎでしょ。関わらないようにするには、極端だけど辞めるしかないじゃない?」

確かに、得体の知れないその先輩と縁を切るなら退職しかないと私も思います。
ですが、なぜ私の勤めるショッピングモールまで見に来る必要があるのか、まったく理解出来ませんでした。

「退職の話の時にアンタの事を伝えてから、何かにつけ『娘さんはどういう人なの?何をしてる人なの?』ってしつこくて。どうしてアンタに興味を持ったかは分からない。でも、さっきの女の人の特徴、本当に先輩にそっくりよ。服装もね。ちょうど二~三日前に着て来た服、黄緑のニットワンピースにグレーのタイツだった。何で会った事もないアンタが先輩の容姿を知ってるのかって、ゾッとしたわ」

背筋が寒くなったのは母だけではなく、私も遅まきながら寒気を覚えていました。
今日、鏡越しに目の合ったあの女性は、いわゆる『生霊』というものなのでしょうか。
世間一般に聞く生霊とは少し違う気もするのですが、
残念ながら私達親子に真実を知る術はありませんでした。
私達は二人して、その晩ずっと怖い、怖いと騒いでいたのを今でも覚えています。

数日後、母は無事に退職しましたが、例の先輩から小物をプレゼントされたと聞かされました。
ですが貰った本人である母は私にプレゼント品を見せ、欲しいかと質問するのです。
いらないと答えたのですが、なぜそのような事を聞くのか、私は母へ尋ねました。
すると行き場のない贈り物を申し訳なさそうにゴミ箱へ入れた母はこう言いました。

「先輩がね『好みに合うか分からないけど。もし趣味じゃなければぜひ娘さんにあげてね』って言うから」

以上が私達の体験談です。
少しでも短くまとめるために大分省いた部分がありますが、ご容赦下さい。
全てを詳しく書き出せればよかったのですが、どうにも憚られてしまいました。
あの先輩が今でも『見に』来ていないとも限りませんから・・・。

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