私は地方の小さな病院で内科医をしている。
一ヶ月ほど前、不思議な患者が私の所へやって来た。

三十代の男性で、その顔はひどく疲れていた。
男は診察室に入り椅子に座るや否や
「先生、咳が、咳が止まらないんです」
と訴えてきた。

切実さと苦しさを吐き出すような声色だった。
「そうですか。最近、風邪は引かれましたか?」
私は男を落ち着かせるようにまずは問診を始めた。
男は風邪は引いていないと言う。

血液検査と肺のレントゲン撮影を終え、改めて診察をした。
検査結果に異常はなかった。
そして何より、男は私が診察している間、一度も咳をしなかった。

「本当に咳が止まらないんです! ほら、ほら! ……私、病気でしょうか?」
「とりあえず、気になるようでしたら、咳止めをお出ししておきましょう」
私はそう言いながら、もしもこの状態が続くなら精密検査より心療内科への紹介状を書くべきかもしれないと考えていた。

その日、自宅での夕食後、ソファに座りテレビを見ていた時だ。
「ゴホッ ゴホッ」
真後ろで咳が聞こえた。

男の咳だ。

野太くかなりハッキリと聞こえた。
私の後ろにはキッチンで皿を洗っている妻しかいない。
「今、何か言ったか?」
「えっ? 何も言ってないわよ」
一応確認する。

「ゴホッ ゴホン」
耳元で咳が聞こえた。

「うわぁっ!」
「どうしたの、あなた?」
「今、何か聞こえなかったか?」
「別に。何かって何よ?」
妻には聞こえていない。

こんなにしっかりと私には聞こえているのに。
私はあの不思議な患者の事を思い出していた。
咳って言うのはこの事だったのか?
じゃあ、この咳は止まらないのか?

「ゴホッ ゴホッ ゴホッ ゴホッ」
また私の後ろで誰かが咳をした。
あれからあの患者が私の医院に来ることはなかった。
そして私の咳は未だに止まらない。
もう限界に近いので近々休暇を取り、私を知る人間のいない県外の病院を訪ねようと思う。
「咳が止まらないんです」と……。

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