リトル西郷隆盛

これは昭和の末、私が小さな広告代理店兼デザイン事務所に勤務していたころの話。
まだバブルの余韻が残っており、零細企業でもなぜかやたらと忙しかった。

私の本職はコピーライター、しかも専門分野が政治経済関係、
リクルーティング、教育機関広報や行政関係という堅いものばかり。
当然と言っちゃなんだが、私をサポートしてくれる人間などいやしない。
唯一の上司は腕は立つのだが病気もち、
忙しい時に限って長期療養とか入院とかになるから救いようがない。

気がつけば、いろんな制作物の納品が重なる春先は、
完全に人間であることを忘れる忙しさだった。
当時はまだパソコンではなく、ワープロの全盛期。

3台を同時に立ち上げ、それぞれ別の原稿を同時進行し、
一方で取材対応に追われるという日々が続き、
残業は休日出勤も含め月300時間、朝9時定時に出勤、
帰宅は朝5時が当たり前だった。

ところがこの商売、因果なものでシーズンが終わるとバタッと暇になる。

話はそれるが、当時の社長はそれを休日に、とにかく給料を上げることを徹底的に拒んできた。要は働けど働けど、である。

その癖、つかの間の暇になる私や同僚のスタッフに、自分の仕事である営業や納品という雑務を押し付けるたちの悪い奴だった。

そんな生活が続いたある晩春の日、私の体をとんでもない異変が襲った。
全身が突如硬直し、それこそ身動きが取れない。
歩こうと思って足を出せば、着地した足裏に激痛、最後は瞬きしたらものすごい頭痛…声もほとんど出ない。

タイミング悪く、その時オフィスにいたのは本当に人はいいが、気弱で異常事態に弱い経理の叔母ちゃん一人。

どうやら私の異変には気が付いてくれたようだが、どうしていいか何をしていいかわからず、おろおろするばかり。

状況説明が長くなったが、ここからが本当に不思議な話。

叔母ちゃんの救急車、と叫ぶ声が聞こえたが、それと同時に私の耳にどこかで聞いたことがある声が聞こえる。

「すぐに来なさい」
…時々お世話になっていた整体師の先生だ。

今思えば、どうやってあの状態で車を運転したのかもわからない。
後で叔母ちゃんに聞いたら、顔面も手も蒼白、脂汗を流した私が、たまたま一台残っていたオンボロ軽自動車のキーをくれ、といったらしい。

私のデスクから駐車場の車まで10mの距離を、まさに這うようにして動き、おばちゃんに車のドアを開けてもらい無理やり乗り込んだようだ。

実をいうと、もうこの辺から全く記憶がない。

事務所からその先生の病院まで渋滞していれば30分以上はかかる。
ところが、である。次に気が付いたときはその整体院の前。
先生とお弟子さん数人が待ち構えていて、私を引っ担ぐようにしてベッドに寝かせた。

本当に分からないのだが、なんと事務所を出てから10分もたっていなかったようだ。にも拘らず、先生は私が来るのを待ち構えていたらしい。

当時、施術を受けていた別の患者さんによると、満員の患者をすべて放り出し、いきなりお弟子さんも総出で駐車場に走っていったという。

ところでこの先生、実に不思議な人でもあった。

容姿は西郷隆盛をうんと縮小した感じ、ぎょろ目で太い眉、怖ろしくがっちりした体躯。ただしやべると、オネエなのだ。

「あら、どうされたの、大変ねぇ。ゆっくり見えあげるからお待ちになって」

って感じ。お弟子さんたちも巨漢揃だが、しゃべり方は先生そっくりという妙な治療院だった。

今思えばその病院を知ったきっかけも妙だった。
持病だったむち打ち症の後遺症で苦しんでいた時、なぜか裏道にあるその病院の前に吸い寄せられるように入っていったのである。

その時も先生が、まだ車道にいる私の車に手招きしていた。
そしてそのまま緊急治療、あれだけ苦しんでいた首の痛みはピタリと収まった。
それから馴染みになり、先生とも親しくなった時に聞いてみた。

「先生、何か霊能力があるんですか。
初めて伺った時から不思議だったんですけど」

というと、先生は体をくねらせながら、霊の口調で恥ずかしそうに

「あら、そんなすごいものないわよ。ただ因果よね。
この仕事を始めてから、体の悪い人が通るとわかっちゃうのよ」

と怖いことを言う。

まあそれはさておき、あの日のことを書こう。
ほとんど失神していた私は、普段とちょっと違う厳しい声の先生の言葉で目が覚めた。私の周りをお弟子さんたちばかりじゃなく、患者さんたちまでが取り囲んでいる。

「皆さん、施術を途中でやめてごめんなさいね。でもこの人は、ほとんど死んでいます。緊急手当てしないと確実にダメです。勘弁してくださいね」

と先生は言い放った。
不思議なことだが、その時にはあれまですさまじかった痛みは治まっていた。
というか全身、まったく感覚がない。
先生が体に触れてもわからない、という状態になっていた。

そんな時間がどれだけ続いたのか、なぜか私は妙な夢を見ていた。
まったく知らない街を一人でさまよっている。
すると街の真ん中のはずなのに、静かで美しい水辺に出た。川だろうか。
水は美しく、流れは静かで妙に引き寄せられる。
そしてその水のほとりに、子供のころ大好きだった近所のお姉さんが立って、昔と変わらぬ笑みを浮かべながら手招きしている。

私は当たり前のようにフラフラとお姉さんのもとに歩み寄ろうとした。
そこで目が覚めた「言っちゃダメ!」という先生の大喝である。
途端に全身の神経が元に戻った。
痛みは走るが、体が不思議と軽い。

先生が「よかった。ようやく帰ってきたわね」と満面の笑み。
周囲にいた患者さんたちも大喝采。
こらえていた感情が爆発し、大の男が泣きじゃくってしまった。

時計を見たら事務所を出てから3時間後のことだった。
お弟子さんによれば、先生はその間、だれも声をかけられないような形相で私に掛かり切り、行っちゃダメ、呼ばれちゃダメ、と叫びながら施術を続けてくれたらしい。
最後は、普通なら絶対にやらない電圧の治療器を私にかけたという。
そこで私は目が覚めたとのこと。

私は本当に三途の川から呼び戻してもらったのである。

後日談を少し、
ものすごく繁盛してにも拘らず、先生は突然、治療院を閉院した。

どうして、と私が訪ねると
「もうお役目は終わったのよ」
と、いたずらっぽく笑った。

今後どうするんですか、と食い下がる私に
「さあ、またどこかでお役目があればそこに行くんだろうし、終わってれば…」
といったきり黙ってしまった。

その後、いろいろなつてを探って先生の行方を捜したが、
何の手掛かりもななかった。

ひょっとして先生は、私を救ってくださったことで、人生、いや霊性の次のステップに行ってしまったのか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる