城跡から見た大木

私は50年来同じ町で暮らしている。 

ここは中部地方G県の人口5万ほどの小さな町で、多くの人は電車で1時間ほどの大都市、N市に職を求めている。
私もご多分に漏れず、そんな人間の一人だ。

ここは低い山に囲まれた盆地となっており、そこここに出来た窪地に人が集まって集落を作り、一つの町を成している。

元来が田舎者体質に出来ているせいか、学校も職場もそこそこ都会のN市に求めたにもかかわらず、住まいは相変わらずこの地にある。

学生時代、地方から出てきた友人の気ままな一人暮らしを見て憧れることもあったが、今ではこの土地に関わった数々の思い出が身体にのしかかり、この土地を離れることは叶わなくなってしまった感がある。

そんな私は、妻と連れ立って散歩に出かけるのがここ数年のルーティンワークである。 特に週末は日頃のデスクワークで不足気味となった運動量を補うため、まぁまぁ長い距離を歩くことにしている。

そんな週末の道程の一つに「城跡(しろあと)コース」というものがある。
文字通り、自宅から町にある城跡を目指すコースなのだが、目的地であるその「城跡」はそんなに高くない山の頂上にあり、そこに行くには多少の汗と根気を必要とする。 週末には格好のウォーキングコースだ。

3月も中旬の穏やかに晴れた日、私と妻はその「城跡コース」をチョイスした。
頂上まではうねうねと緩やかな坂が続き、傍らには芽を吹き出したツクシやホトケノザ、カンスゲがちょっとしたピクニック気分にさせる。

自宅から約1時間、私と妻はやっと頂上に辿り着く。
動悸が収まるまで二人とも終始無言。

しばらくの後、やっと周囲の景色にも目が行くようになった。 

何回も訪れているが、ここはいつ来ても壮観である。
眼下には昔城下町であった街並みが座り、その向こうにはいずれは海へと届くT川が穏やかに流れている。
春にはまだ早いが、温められた空気がうっすら霞となって、遠くの景色をぼかしている。
だが、穏やかな風景とは裏腹に私の後ろには黒々とした森が横たわっている。
そしてその森の中をけもの道とも小経ともつかない筋が見え隠れしている。

その小経は溝のような小川に沿って続いていて、小川の水は小さな池に行き着くことを私は知っている。
そして池のほとりには小さなお堂があり、お堂の両側は岩の壁となっていて、その壁に何体もの仏様が直接彫られていることも。

郷土史によると、その在るか無きかの小経は城が攻め立てられた際の逃げ道であったらしい。 そしてそれは一度だけ目的通りの使わ方をされたことがある。

16世紀中頃の春の事である。
その年の春の宵、城が攻められた。
そしてごうごうと燃え盛る城跡を後にして、女子供がその小経を下ったらしい。 しかし麓で待ち伏せしていた敵方にすぐに見つかり、一人残らず斬首された。

その時池は女子供の血に染まり真っ赤になったという。

お堂はそれら無念のうちに亡くなった人たちの霊を鎮めるために建てられたものであり、岩に彫られた仏様は殺された人の数と同じ数である。

そして現代。
お堂の周りには多くのもみじが自生しており、秋になると色鮮やかな木々が廻りを染める。
そしてそのお堂の悲しい歴史を知ってか知らずか、毎年木々が色づく頃になると「もみじ祭り」と称して日が暮れるとライトアップが施され 時折小さなコンサートも催される。

斯く言う私も何年か前にそれを観に行ったことがある。
普段は重苦しい雰囲気を漂わせているお堂も仏様も、演奏される洋楽器の響きによって幽玄なたたずまいを隠している。
そして集まった人々の騒々しさが本来そこにいるべき人たちの居場所を無くしてしまっているようであった。

その日の主役であるもみじも煌煌と照らされた投光器によって、もみじはその赤さを増し幻想的な光景を創り出していた。
人々はその景色に感嘆し、声を漏らす。
そして皆もみじの映った池に携帯を向け、シャッターを切っている。

だが私にはそれが真っ赤に染まった血の池にしか見えなかったのを覚えている。

そして本来立ち行ってはいけない場所に無知な人間が土足で踏み入っているような恐ろしさを覚えた。
以来、そこには足を向けていない。

「あそこがMちゃん家で、あの角が酒屋、ということはあの赤い屋根がYさん家か・・・」
前を向き、目の前に広がる景色を眺めていたつもりが意識だけは既に小経を下って池のほとりに佇んでいたようだ。
そんな私を妻の独り言が現実世界に引き戻す。
自分も妻の指差す方向を目で追う。
そして補足説明を入れる。
「ということは、今自分たちはあの道を通ってここまで登って来たんだね」
と虚空を指でなぞる。
妻も同意する。

眼下で人々が陽の当たる道をゆっくりと動いている。
動いている人たちはこんなに遠くから見られているとは露とも知らない。
ふと、人が死んだらこんな風に自分の大切な人を見守るのだろうか、と考える。
烏が近くで飛び立つ。

不意に妻がつぶやく。
「今、私達が通ってきた道の途中にあんな大きな木と、林ってあったっけ?」
そう言われて指差す方向を見る。
言われた方向には確かに一本の大木とそれを囲むようにして小さな雑木林がある。 大木は遠目から見ても楠のようである。
堂々としている。

自分は頭の中にある地図と目の前の光景を重ねてみた。
その二つはほぼ重なる。
しかしその木と林は目の前には在って、私の地図には無い。
次に頭の中で此処を下り、その道をたどってみる。

しかし何回やってもその林にはたどり着かず、自宅に着いてしまう。
傍らを見ると妻も同じことをやっているようだ。
そしてその表情は私と同じ結論のようだ。
「あの木のある辺りって何があるっけ?」

もう一度考えて、私は言う。
「確か今は新しい家が2、3件建ってるけどその前は個人病院だったところだね。T醫院とか言う・・・」

確かにそうであるはずだ。
そこは何年か前に更地になっていたが、最近瀟洒な住宅が立て続けに建った。
その場所のはずである。

そこには以前、いかにも病院といった風情の赤レンガの洋館があった。
それがT醫院である。
私の記憶では小学生の時の校医がそこのT先生で、私も予防注射を受けた思い出がある。そして病院自体は私が中学の時、廃業したと聞いた。
ただしその記憶の中の醫院に大きな楠やそれに続く林は存在していない。

「私もそう思った。確かにあの辺りだよね。よし、じゃあ帰りもあの場所を通ってみようか」 と妻は言った。
「そうしようか」
私はそう言い、改めて楠を眺めた。
良く見るとその大きな楠、それ自体が一つの森のように見える。
そしてその周りを小さな点が舞っているのが見える。
鳥だ。種類は判らない。
そんな光景を最後に私たちは山を下りて行った。

「そう言えば・・・」と妻は言った。
「城跡から見た大木の話」

山へ登ってから数週間経った夕食の時の話である。
「この前山に登って見た風景と、下りた時に観た景色があまりにも違うって話、Mちゃんにしたのよ」

結局あの後、二人で醫院跡を通って帰ったのだが、そこには大木どころか庭木の一本も生えていなかった。
ただ新しい住宅が建っていただけである。
で、その話を友人にしたらしい。
その彼女も土地の人間である。 彼女によるとあの辺りに大きな木や林が存在するスペースは存在しないはずだという。

そしてその件は、Mさんの「不思議だね」というありきたりな一言で句読点を打たれてしまったらしい。
ただその後Mさんからその醫院にまつわる話を聞いたのだそうだ。

MさんいわくそのT醫院は私たちが小さかった頃はただの町医者だったのだが、それ以前、すなわち私たちに予防注射をしてくれたT先生の曽祖父は明治時代に医者であり、篤志家でもあったとの事である。

彼は明治の初期にその頃不治の病と言われていたある病気に罹った人を治療するため、この地に診療所を建てたとの事。

ただ今では彼の業績も、そこに療養所があった事もすらも知られていないという。 私は妻からその話を聞いて、妙に合点が言った。

今でこそ「療養所」と言えばトトロの中でメイ達のお母さんが入院しているところ、というイメージだが明治時代のそれには「隔離」というイメージが付きまとう。

世間とは隔絶された場所でひっそりと暮らす、そんなイメージだ。
私が城跡から見た光景は正にそんな場所であった。
私たち二人は何故だか明治時代に存在した療養所を見たのだ。
だが、確信を持って言えるのはあの光景にまったく暗い印象は無かったことである。
そこには暖かな、人が安心して瞼を閉じられる安らかさが存在した。

春の日に私に起こった出来事である。

朗読: りっきぃの夜話

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

閉じる