年号が変わった2019年。
史上最長のゴールデンウィークなんて浮かれていられる身分ではなかったが、3人だけの家族全員の休みを、たった2日間だけ合わせて取ることが出来た。
全員が仕事を持つ我が家では、これがなかなか難しいのだ。
折角なので、何処かへ遊びに行こうということになったは良いが、たった2日では遠出は出来ない。
しかも計画が上がったのが、ゴールデンウィーク1週間前。おまけに何故かお金もあまり無い。
リゾートホテルや温泉など取れるわけもなく、遊びに行くのは東京浅草、泊まるホテルはオフィス街のビジネスホテル。
それもシングルルームの3部屋に1人づつ泊まるというものとなった。
日中は、天丼を食べたり、寄席で笑ったり、それなりに愉しんだ。
そして、そこそこ疲れを感じながら、予約したビジネスホテルへと向かった。
流石、大都会東京のオフィス街である。
平日なら、ビジネススーツに身を包んだ男女が、さぞかし颯爽と闊歩しているであろう街並みも、その日は、ゴールデンウィークの真っ只中。
歩道を歩く人もまばらで、スーツを来ている人など1人も居ない。
さながらちょっとしたゴーストタウンのような雰囲気で、それはそれで、休日感が漂っている。
そんなオフィスビルの狭間に建つ予約したホテルは、なんの変哲もない、極普通のビジネスホテルだった。
入り口の自動ドアを抜けてすぐのエントランスが、電気代の節約なのか、それとも落ち着いた雰囲気を演出してなのか妙に薄暗く感じたが、チェックインを済ました私達は、次の日の朝食の時間だけを約束し、それぞれの部屋へと消えた。
ベッドと机だけが置かれた狭い部屋の内装は、リフォームしたばかりで、壁紙も新しく、ダークブラウンで統一されたシックで落ち着いた雰囲気だった。
私は早速シャワーを浴びると、備え付けの部屋着に着替え、コンビニで買ったチューハイを飲みながら、ベッドに寝転がり、ミステリードラマを見ていたのだが……。
気付くと私は、人気のない夜のオフィス街を走っていた。
得体の知れない、何か恐ろしい物に追われ、恐怖に慄きながら、息を切らせて走っていた。
追いかけてくるそれは、男なのか女なのか、人間なのか獣なのかも分からない。
確認出来るのは、ギラついた目と不気味な息遣いだけ。
私は加齢のせいもあり走るのが遅く、それはどんどん迫ってくる。
もっと早く走りたいのに、足が気持ちに着いて行かない。
とうとう足が縺れ、ガクンっと転んで仕舞った。
そこで、目が覚めた。 いつの間にか寝落ちしていたのだ。
心臓がドキドキと、激しく体内の血液を循環させている。
ベッド脇のテレビでは、まだミステリードラマが続いていた。ベテラン刑事が犯人を前に、殺人事件のトリックを暴いている最中だった。
眠っていたのは、時間にすれば30分程度か。
「わあ、怖い夢みたわぁ……。だいぶ疲れてるんだな」
気持ちを落ち着ける為に、態と言葉を声に出した。今この時が現実であるという実感を持ちたかった。
私はバスルームへ行って歯を磨き、テレビを消してベッドへ入った。
スマホで怪談朗読の動画を聴いていると、すぐに睡魔がやってくる。
スマホの電源を落とすと、本格的に寝る体制を取るべく、枕を整えて目を閉じた。
恐らくは数分後、うとうとと微睡み始めたその時だった。
突然、バンッと枕を強く叩かれ、私は驚き目を開けた、そこに、ボザボザの乱れた黒髪の女が、鼻先1センチの所まで顔を近付け、私の顔を覗き込んでいたのだった。
「ゼッタイニ、ユルサナイ……」
女は怒りに満ちた形相で、ガタガタの歯並びの悪い口をカッと開き、震える声で言った。
私はそこで、気絶したのかもしれない。
または、それもやはり、夢だったのかもしれない。
気が付くと既に朝で、何度も鳴る部屋のチャイムで目を覚ました。
「おかあさん、遅い!」
ドアを開けると、娘が立っていた。
約束の時間になっても、朝食に現れない私を起こしに来たのだ。
私は慌てて着替えると、家族の待つレストランへと向かった。
「ごめん、昨日変な夢見ちゃって」
私は言い訳がましく、昨夜の悪夢の話をした。
「えー、こわーい」
スマホから目も離さず、抑揚のない声で娘が言う。
「まあ、疲れてたんだな」と夫。
「でもさ、かなりびびったよ。あれがオバケだったら、初めての心霊体験だよ」
「そんなこと、有るわけないよ」
夫は鼻で笑うが、娘は、 「あ、それ、あり得るかもー」と、スマホ画面を私に向けた。
見るとそこには、某有名事故物件公示サイトが写し出されていた。
「ここ、事故物件ホテルだってー」
スマホ画面の地図には、小さな炎のマークに吹き出しがあり、そこには今私達が朝食を取っている、このホテル名と住所が記載されている。
そして「ビジネスマンが非常階段より投身自殺」と、書かれていた。
「え、マジか!?」
一瞬、背筋がゾクッとした。昨夜見たアレは、夢じゃなかったのか?
「あ、でも、大丈夫。私が見たのは女だったもの。自殺したのは男でしょう? だから、やっぱり昨日のアレは夢だよ!」
心霊好き、幽霊肯定派の筈なのに、いざそれが自分の身に振りかかるとなると、途端に否定派になる私。
「んー、でもおかあさん知ってるー? 今OLって性差別用語だから使わないらしいよー。だからこのビジネスマンも男とは限らないかもー。此処はオフィス街だからねー」
私はその時、スマホ画面をスクロールしながら、恐怖に落とし入れる言葉を淡々と吐く娘が、1番怖いと思った。