旅する犬

これはまだ私がサラリーマンをしていた時代の話。
実はこの犬、死んだ親父がどうしてもといってもらってきた犬だった。
名前も親父が生まれて初めて飼った犬の名をもらい,ビー公と呼ばれていた。

最初はテリアの雑種でそんなに大きくならない、
という話だったのが2年で体重30キロにまで巨大化、私たちを驚かせた。
その一方で性格は実に温厚で我儘も言わない子だった。

それがあるときから不思議なことをし始めた。
毎週、土曜日になると私の帰りを待ってキュンキュン鳴き始めるのだ。
その頃には父ももう天国に召されていて、母と二人暮らしだったのだが、
どうやら翌日は休みだとわかるようなのだ。
それで何がしたいのかなと思うと、 一直線に車のほうに走っていく。
そう、ドライブに連れて行けというのだ、こんなおねだりをしたことがない子だったので、私たちもびっくりしたが、
以前から犬を連れて旅行をしたいといっており、
車もステーションワゴンに買い替えたばかりだった。

それを知っていたかのように、そのおねだりは毎週のように続いた。
夜のネオン街、神社、お寺、港、空港…実にいろいろな場所に出かけて行った。
ビー公は、どこへ出かけて行っても実に嬉しそうな顔をして風の匂いを楽しんでいた。
車から降りるのは好きでなく、風景の映る代わりも楽しんでいたようだった.
ご追ふさふさのしっぽを思い切り振りながら、
本当に笑うような表情で私たちとドライブを楽しんでいた。
結果的にそれが不幸を招いてしまったかもしれない。

温厚実直、優しい犬にも恋の季節がやってきたのだ。
私が早く帰れる日は、夜10時ころに散歩に連れ出していたがいきたがるのは、
家の周りの区画を取り巻いて走る反対側。どうやらそこに恋犬がいたらしい。
というのは私も、その子の鳴き声は聞くのだが、姿は部屋の中で見えなかった。
そんなある時のこと、私が忙しくてどうにもならないときは、
早朝ならば車も少ないし、おとなし犬だということを近所の人も良く知っていたため、6時ころにひとりで散歩に行かせていた。
すると8時くらいには毎日ちゃんと帰ってくる。
おそらく犬の足で30分もかからないだろう場所。
そのころはすっかりその近所でもおなじみさんになり、
可愛がってくれる人も増えていたようだ。
しかしそれが暗転してしまった。
信号も慎重に見極めて道路を横断するような賢い犬だったのだが、
朝私が徹夜明けで帰ってくると、
近所の犬仲間の叔母さんが血相を変えて飛び込んできた。
「ビーちゃんが、ビーちゃんが」というばかりであとは涙涙。
すぐに何があったかを悟った私は、いつもの散歩ルートに向かった。

すると家から5分ほどの国道の横断歩道で、息絶えているビー公を発見した。
おばさんによれば、上機嫌でいつものように挨拶をかわし、
青信号で信号を渡り始めたとき、信号無視のトラックにはねられたという。
ただ本当に不思議だったのは、トラックにはねられたにしては体表も傷がない、出血もない。
ただかわいそうなことに首の骨だけが折れていた。
しかし死の直前にあっても、あんな幸せそうな安らかな顔ができるものかというくらい、実にふだん通りのビー公だった。
今考えると、あの子がいろいろな場所に行きたがったのは,
もっともっと私たちとの多くの思い出を残したかった、
私たちが喜ぶ顔を見たかったからじゃないのかなと、
どうにも切なくてたまらないのである。

朗読: 【怪談朗読】みちくさ-michikusa-

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