勤務先の上司から聞いた話です。
上司の息子(Mさん)は幼少の頃から当然のように霊が見えるという人で、心霊体験などそれこそ日常茶飯事というほどだそうです。
そんなMさんの大学時代のことです。
ある日Mさんは夕刻、大学から自宅マンションに戻りエントランスホールを抜け自室に帰るためにエレベーターに乗り込みました。
その時、他に同乗者はなくMさん一人だったそうです。
ところがエレベーターに乗って目当ての階を表示するボタンを押しても何の反応もありません。
試しに他のボタンも一通り押してみましたが、目的の階のボタンだけではなく、すべてのボタンが反応しないのです。
「ん? 故障かな?」と思っていると不意にエレベーターのドアが閉まり室内電灯が消えました。
そして次の瞬間、エレベーターが唐突に上昇を始めたのです。
さすがのMさんもこれにはおどろき、とりあえず様々なボタンを手当たり次第に連打してみますがエレベーターはまったくとまる気配がありません。
感覚的におそらく最上階くらいまできたかなというあたりで、ようやくエレベーターは停止しました。
それから幾ばくかすると、何のボタンも押していないのにエレベーターのドアがゆっくりと開きました。
エレベータードアの外側は真っ暗な闇です。
まったく何も見えないので地面があるフロアなのか、それとも足の踏み場すらもない本当の空間なのか、それすらもわかりません。
どうしていいかわからずしばらくの間、ただただ呆然としていたそうです。
立ち尽くしたままでやや時間が経ち、暗闇にも多少は目が慣れてきたころでしょうか、闇の中に何かがぼんやりと浮かんできました。
その何かは時間の経過と共にはっきりとした形を取り始めました。
それは青白い“人の手”だったのです。
見えているのは肘から先だけで、それより後ろ側は見えません。 その青白い手がMさんに向かってゆらゆらと手招きをしています。
その刹那、Mさんの身に激しい戦慄が走りました。
手の正体がなにかなどわからなくても、それがひどく醜悪でおぞましい悪意の塊のような存在であることだけは直感的にはっきりとわかったそうです。
歯の根元がガチガチ震え、「俺は今ここで死ぬ」という心身が内側から凍り付くかのような絶望感に囚われ、あきらめにも近い精神状態になったといいます。
なんとか気持ちを持ち直し、とにかく「手招きに応じてはいけない、一歩でもあの手に近づいてはいけない、あれに近づいたら俺は確実に死ぬ」それだけを一心不乱に考え、油汗が全身を滴る中、目を閉じてひたすらに恐怖と戦いながら時間をやり過ごしました。
「俺は生きてここから帰ることができるのだろうか……」
「俺はこの悪意に取り込まれてしまうのだろうか……」
「もし生きて帰ることが出来たとしても俺は俺でなくなってしまうのかもしれない……」
「家族や友人たちとの楽しい時間は永久に失われてしまうのだろうか……」
恐怖と絶望の中そんな思念が次から次へと湧き出てきます。
5分か、10分か、それとも30分か、どれほどの時間が過ぎたのか判然としませんが、突如エレベーター内の電灯が灯り、それと同時にドアが閉まるのが感じられました。
驚きつつも目を開けるとエレベーターはまるで何事もなかったかのように機能を回復し、階数を表示するボタンにもランプが光っています。
Mさんはハッと我に返り「本当に助かったのか?」と半信半疑の思いながらも自室のある階のボタンを押し、汗でぐっしょりと濡れた全身を引き摺るようにして自宅へと帰ったそうです。
なんとか自宅へたどり着いたものの、先ほどまでの絶望的な恐怖を拭い去ることが出来ず、頭から毛布をかぶったまま一晩中震えていたそうです。
心霊体験など子供時分からすっかり慣れっこのMさんにとっても、この体験だけは心底恐ろしく、今でも忘れることができないものだそうです。
話は以上となります。
その後、Mさんの身に何かが起こったというようなことはなく、現在では大学を卒業して普通の社会人として生活されているとのことです。
いまでも日常的に幽霊の姿は見えているのでしょうけど。