霊感のない話

 これは私が大学入学を機に実家から離れ、一人暮らしをはじめたアパートでの話です。

 借りた部屋は私の祖父母が存命の頃にも借りていた同じアパートの一室です。
 このアパートは昭和初期に建てられた木造の引き戸で、外からみれば長屋を二階建てにしたような建物でした。
 中は広く京間の十二帖で取っ手やガラス戸やトイレのタイルが大正風のおしゃれデザインです。
 ちなみに京間とは最も大きな畳のサイズで、古い関西の建物に使われていることがあります。
 一番小さいサイズの団地間の畳と比べると、同じ六畳でも実際は二畳分ほどの差がでるほど大きいですから、一人暮らしの部屋には広すぎる程です。
 私は小学校に入学するまで祖父母のもとで育ったので、このアパートの入居者も大家さんも、私が子どものころから付き合いがあります。東京でいう下町のような場所でしょうか。
 地域の人達に甘やかされて育てられたといっても過言ではありません。いまだ地域の人からは保育園のときのあだ名まま呼ばれます。
 京都市以外で暮らしたことがなく、見知らぬ町に急に住む度胸もない私にとって、一人暮らしをはじめるにはこのアパートがうってつけだと思ったのです。
 大家さんに二階の部屋を見せてもらい、ここより高い建物がないおかげで風通しも日当たりもかなり良く、レトロな和室を一目で気に入った私は、大家さんとは昔馴染みなこともあって、部屋の契約をその場で決め入居しました。
 祖父母が暮らしていた一階は日当たりが少し悪かったので、昔の印象がだいぶ違ったのも決め手の一つとなったように思います。
 一人暮らしだと、実家暮らしやシェアハウスに住んでる友達のかっこうのたまり場となり、映画鑑賞会をしたり、鍋パーティーをしたりして、一人暮らしを満喫していました。  

 異変が起こったのは、一人暮らしにも慣れたある日のことです。
 就寝していた私は、ふと何か気配のようなものを感じて目が覚めました。
 何気なく玄関の方を寝た姿勢のまま顔だけ向けました。
 すると東のガラス戸の外は薄紫色で「ああ、もうすぐ日の出くらいやな」と思った瞬間、身体が動かない……というか重いと気づきました。
 顔をとりあえず玄関から正面に戻すと、身体が重い理由がわかりました。
 私の身体をまたがって乗っていたのです、黒い人が。
 その瞬間、私は(強盗や!)と思いました。
 なぜならこのアパートは古すぎて戸の鍵も簡単で、簡単に開けられてしまうので空き巣に狙われやすく、隣の部屋の人が空き巣と鉢合わせになったばかりだったからです。
 視力が悪く、コンタクト外した状態の私でも男性らしき輪郭ははっきりとわかりました。
 私の上にのしかかっていた‟そいつ“は急に何かを握りしめた右手を、私の頭に向かって振り下ろしてきたのです。
 私はとっさに右手で防御し、左手でそいつの手を掴みました。
 そいつは必死に私の頭に握りしめた何かを刺そうともがき、私も負けずと押し返して、しばらく攻防が続きました。
 そのうち、私のなかで‟驚き“という感情よりも‟怒り”が勝ってきました。
(なんやこいつ、いきなり入ってきよって、ふざけんな!)
 怒りの感情が最高潮に達した瞬間、私はそいつの右手をありったけの力を込めてぎりぎりと締めながら、その腕を掴む力を利用して上体をググッと起こし顔を近づけ、今まで出したことのない大声で「やめろや!!!」と叫びました。
 すると消えたのです。人の形をもち、私と争っていたその男が。
 サァッとまるで細かい砂が風に吹き飛ばされるように霧散し跡形もなく。
 人間と争っていたつもりの私はしばらく呆然として、よく考えれば東側の大きな窓が明るくなっていた時刻で、いくら目が悪いとはいえ、あんな至近距離で目鼻や掴んでいた腕の色が分からないはずがないのです。
 しかしそいつは目鼻もなく掴んでいた腕も黒一色だったのです。
 そしてそれは私の怒鳴り声とともに形を失くしました。
 私はやっとそこで、それが人ではないと気づきました。

 その一件以降もその部屋に住んでいますが、何ら変わったことは起こっていません。
 しかし一つだけ、その日以降から変わったことがあります。
 その部屋は入居した時から、よく天井板がへこむほどネズミが走り回り、バンッバンッバンッとうるさかったのですが、その日以降一切なくなりました。
 それは必ず私が一人のときに起きます。
 小動物というよりは、まるで重いものが四つん這いで移動しているような、それぐらい大きな音が三日に一回はしていました。
 それがその日以降、何か月経っても一切しなくなったのです。

 私にはいわゆる「霊感」というものがありません。
 ゾクゾクするとか、あそこは気持ち悪い気がするといった類のことをまったく感じないのです。
 母と姉が気持ち悪い早く離れようと言い出すことがあっても、その逆はありません。
 なので母と姉からは人間として必要な恐怖心が欠如しているとよく言われます。
 天井に走るものがあればネズミかイタチという考えがあった私は、へこんだ天井板を箒の柄で押したりしていましたが、霊感のない私には、(それにしても重いなぁ猫より重いわ)と思う程度でした。
 アパート自体は確かに古いのですが作りは丈夫です。天井板もそんなに薄いものではありません。
 それが割れるかと思うほどへこむのは、いくら太ったイタチでも無理だと音が止んでから思いました。
 試しに台に乗って天井板を押してみましたがビクともしませんでした。

 その音とあの黒い侵入者、両者は何か関係があったのか、今の私には知るすべがありません。
 昔から私は「普通の人だと思っていたのが、物理的にあり得ないものだと気づいて初めて異質なものであると理解する」ということが多々ありました。
 それらについてはいくつかあるので、また別で投稿しようかと思います。

 たまに京都の賑やかな繁華街を歩いていて思うことがあります。この雑踏の中にも私にしか見えてない人はいるのだろうかと。

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