空き地に佇む影

朝が苦手な私は、いつもゴミ出しを夜、それも深夜0時に行う。
それは悪い事だと知っている。
夜にゴミを出すと、野良猫や、早朝には烏も狙ってやってきて、
ビニール袋を食い千切り、ゴミを荒らす被害に合いやすい。
だから町内会の回覧板でも「ゴミは当日の朝に出しましょう!」と繰り返し警告している。
それを重々承知の上で、私はゴミを午前0時過ぎに出しているのだ。

「午前0時は、ほぼ朝」
そんな理屈を自分自身で仕立て上げ、その日も午前0時を待ってゴミを捨てに出た。
師走の夜の風は冷たく、悪事を咎めるように、
風呂上がりの頬をチクチクと撫でる。
私は素足にサンダル履きといった装備を、玄関を1歩出た所で後悔した。
だが、引き返すにも勇気がいる。
そして私には、その勇気がなかった。
家の中に戻って、厚手の靴下を履いて、もう一度外に出るなんて、
とてもじゃないが出来そうにない。
戻ってしまったら最後、きっと心が折れてしまい、もう次のゴミの日まで、
ゴミを捨てに出ることはできなくなってしまうだろう。
私は、そういう人間だ。
これから始まる苦難の旅に出る冒険者の如く、
2つのゴミ袋を持った私は、意を決して家の門を出た。

家からゴミの収集所までは、直線距離にして約50メートル。
昼間の明るい時なら何とも感じない距離なのだが、
深夜0時、それも重たいゴミ袋を持っていると、
何故か果てし無く遠い場所に思える。
夜遅く帰宅するご近所の誰かに、現場を見られるのではないかという、
やましい思いがあるせいでもあるのだろうが……。
私はパンパンに膨らんだゴミ袋を両手に下げ、
収集所を目指して足速に歩き出した。
そこは住宅街。
深夜に人とすれ違う事はあまりない。国道を走る車の音が、遠くに聞こえる。
それ以外は、風が庭の草木を揺らす音が、ガサガサと聞こえるだけだった。

我が家の隣は空き地になっていた。
敷地は我が家の約2倍はある。
数年前までは、吉澤さんという有名企業に勤める御主人と若い奥さん、
幼稚園に上がるか上がらないか位の小さな子供が2人住んでいた。
洒落た立派な住宅で、絵に描いたような幸せ家族、そんな家だった。
ところがある日突然、その家の御主人が急死した。
死因は心不全と聞いたが、
「心不全て、本当の死因を隠したい時に使われる、都合の良い病名よね」
と、御近所さんがヒソヒソと言っていた。
いずれにしろ、遺された奥さんと小さな子供2人の行く末を、
他人事ながら案じていたら、間もなく流れてきた噂は、
家は手放し、子供2人は亡くなった御主人の弟夫婦が引き取り育てる事になったというものだった。
御主人を亡くし、子供2人を手放す決断をした奥さんの気持ちを計り知ることは出来ないが、
悩み抜いての苦しい決断だったのだろうと想像は出来る。
不動産会社の手に渡った隣家は、暫くはそのまま、
土地建物付きで売りに出されていた。
洒落た立派な家だったのだが、それがかえって良くなかったのか、
それとも他に理由が有ったのかは知らないが、なかなか売れず数年間経過。
そしてその後、解体業者がやってきて、
隣家は取り壊され、綺麗な更地となったのだった。
簡単な木の柵と「管理地」と書かれた看板だけが立つ空き地では、
枯れ草だけが風に吹かれて揺れている。

外灯の淡い光に照らされた、サワサワという枯れ草が互いに擦れ合う様子が、
冬の夜を更に寒く演出する。
私は特に何かを気にするわけでもなく、足早にその空き地の前を通り過ぎた。
その時、何やら左目の端で、何かを捕えたような気がした。
しかし私は本来の目的である、ゴミを捨てるという行為に集中していた。
その為、目の端に写ったモノが、何であるのか、
それが実際に目で捉えられる実態のあるものなのかどうかさえ、確認しなかった。
もしかしたら脳が作り出した、単なる幻影であったのかもしれない。
視覚では捕えたものの、それを脳で認識する事が出来なかった、そんな感じだろうか。

兎に角私は、空き地の前を無心で通り過ぎ、目的地に辿り着くと、
烏避けの黄色いネットの中に2つのゴミ袋を収めた。
師走の深夜0時過ぎ。
下手をすると忘年会帰りの御近所さんに出会すかとも思ったが、
幸い誰にも会うことなく、使命を果たす事ができた。
ホッと安堵した私は直ぐに踵を返して、今来た道を引き返した。

行きよりは少しゆっくりと歩いていた。周りを見る余裕もあった。
家に戻ったら、炬燵に入って、何か温かい物を飲もうと考えていた。
もう直ぐ自宅という所で、私は何故か顔を右に向けた。
そこは吉澤さん一家が住んでいた土地だ。
今は家は取り壊さて空き地となっている。
その空き地の真ん中に、男が1人立っていた。
顔は分からない。後ろ向きなのだろうか。
外灯もそこまでは届かないのか、男は真っ黒だった。
そして空き地の真ん中で、仁王立ちしていた。
その黒さは、まるで墨で塗り潰したようで、
周りの光を全て吸い込んでいるかのようだった。

私は思わず立ち止まった。
男が見覚えのある佇まいだったからだ。
だが誰なのか思い出せない。
数秒後、それまで微動だにしなかった男が、突然ピクリと動いた。
そしてギシギシとしたぎこちない動作で、
こちらへ振り向こうとしているのが、その仕草で分かった。
次の瞬間、私はダッと走り出し、大急ぎで家の玄関に飛び込んだ。
そしてサンダルを乱れるままに脱ぎ捨てると、
居間の炬燵に頭まで潜り込み、ガタガタと震えた。

私はその男が、この世のモノではないと気づいたのだ。
その男は、妻と小さい子供2人を遺し亡くなった、
吉澤さんのご主人にそっくりだったのだ。
私は怯ながら、その夜を過ごした。
しかしそれ以外の出来事は何も起こらず朝を迎え、
その後も私自身の身には何も起きなかった。

暫くの間、隣の空き地は、そのまま買い手も付かず放置されていたが、
その後、土地を2分割し、住宅が2棟建てられ売りに出された。
すると買い手は直ぐに付き、山代さんと勝又さんという2組の家族が引っ越してきた。
異変が起きたのは、それからだった。

山代さんの奥さんから、我が家のポストに、長文の手紙が届いたのだ。
達筆?過ぎる読み難い字で、
しかも前後が繋がらないめちゃくちゃな文章だった為、なかなか内容を把握することが難しかった。
「引っ越して来てから、暫くは我慢していましたが、もう限界です。
御宅で飼っている犬の鳴き声が煩くて、とても困ります。
ちゃんと躾をして下さい。
それが出来ないのなら、保健所に連れて行くべきです」
要約すると、だいたいそんな内容が書かれていた。
確かに犬は飼っていた。雑種だが大人しい牝犬だ。
家人が帰宅した時と、餌の時間に少し吠える事はあったが、
それ以外はいたって静かな犬である。
朝と夕の散歩に出かける時、結構高い確率で、
庭先に出ている山代さんの奥さんに出会していた。
「おはようございます」
当然私は、挨拶の言葉は掛けるのだが、
山代さんは不機嫌というわけではないにしろ、
常に無表情で頭を下げるだけだった。
思えば、その時から、犬の存在が気に入らなかったのだろう。
飼い犬のことは取り敢えず謝りに行くにしても、
こんな抗議文を書いてよこす山代さんが、何だか不気味だった。

どうしたものかと思っていたら、山代さんは他の隣近所数件の御宅にも、
似たような抗議文を出している事が分かった。
内容はまちまちであったが、どれも長文で文脈がめちゃくちゃ、
中には、何度読んでも何を言いたいのか分からない、
というモノもあったそうだ。
「山代さん、何だかちょっと変な人よね」
そんな事を囁き合っていたある日、パタリと山代さんの姿を見なくなった、
かと思ったら今度は、入院したらしいという噂が流れた。
そして、恐らくは精神科だろうと……。

それからというもの、山代さんの奥さんは現在に至るまで、
入退院繰り返す生活を送っている。
そして、空き地に建ったもう一軒の建売住宅に引っ越して来た勝又さん家族は、
御主人が程なくしてリストラになり、再就職も上手く行かず、
今では奥さんが大黒柱となって働いているそうだ。
山代さんにしろ勝又さんにしろ、どの家庭でも起こりうる、
特に珍しい事象ではないのかもしれない。
だが私には何だか、あの日、更地となったあの空き地で佇んでいた、
突然死した吉澤さんの御主人に似た黒い影のような男が、
関係しているのではないかと思ってしまうのだ。

そして私はあの日以来、夜中にゴミを捨てに行くことは止めた。
おわり

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