洗面器の水

 十階建てのマンションに引っ越した。
 築年数は古いみたいだけど、中はオールリノベーションされていて新品同様のキレイさだ。 そのくせ格安の物件で、すぐに契約を決めて引っ越した。
 ただ、良いことばかりじゃない。

 なんだかちょっと空気が淀んでいる気がするし、だいいち水が臭い。 築年数が古いせいでやっぱり見えない配管とかが古くなっているのだろう。
 台所の蛇口には浄水器を設置してなんとかなった。 飲み水は基本的に外でミネラルウォーターを買ってくることで対処した。
 だが、どうにも気になったのが風呂の水だ。
 普段はシャワーだけで済ませているのでそれほどでもないが、 たまにバスタブに湯を張ってゆっくりお湯に浸かってみると、 それがどうにもこうにも、お湯の匂いが少し生臭い気がして台無しな気分になる。
 一瞬、屋上の水タンクに何かの死体でも浮いているんじゃないかと勘繰ったが、ここのマンションは1階から3階までを企業が使っており、その分管理も行き届いていて 水のタンクに異常はないそうだ。
 それ以来、湯船に浸かりたい時には温泉の素を入れるのが欠かせない。 これで少しはごまかせる。

 ある日おかしなことに気が付いた。
 自分は毎朝シャワーを浴びるようにしているのだが、 風呂場の隅に置いてある洗面器に、なみなみと水が溜まっているのである。
「きっと昨日入った時に溜まった水を、捨て忘れただけだろう……」
 そう思って、あまり深く考えずにその水を捨て、シャワーを浴びた。
 だが、そんな風に洗面器に水がなみなみと溜まっていることが度々起こるようになってきて、 少し不信感が沸いてきた。
 最初はたまたま捨てるのを忘れただけだろうと思ったし、 もしかしたらシャワーであちこちに溜まった水が偶然洗面器に流れて集まっただけかもしれないと思ったりした。
 確かに洗面器の上には、シャンプーやボディソープなんかを置いておけるトレーが設置されているのだが、 どう考えてもそこに溜まる量の水では、洗面器を満たすことはできそうもない。
 気になりだしたので、シャワーが終わって風呂場から出るときには、かならず洗面器が空かどうかを確かめるようになった。

 そしてある日、やはり洗面器になみなみと水が溜まっているのを見つけ、 これはどうしても真相を確かめる必要があると思い立った。
 防水型のビデオカメラの安いやつが中古で売っていたのでそれを買い、三脚を用意して風呂場に設置し、 洗面器にどのようにして水が溜まっていくのかを撮影することにした。
 レンズには曇り止めをして、風呂場の電気はつけっぱなしにして、カメラは洗面器に向けて録画開始。 そのまま自分は会社へ向かった。
 その日は残業もこなして、けっこう遅い時間になってしまったが、帰宅して真っ先に風呂場を覗いた。
  洗面器に水が溜まっている! やった! ついに謎の瞬間をビデオに収めることに成功した!
 喜び勇んでビデオを回収し、テレビにつないで見ることにした。 けっこう長時間のビデオだ。
 早送りしながら、じっくり確認させてもらおうと思い、 ビデオをスタートさせながら、コーヒーでも淹れようかと腰を上げた瞬間、愕然とした。

……長時間待つ必要なんてなかったのである。
 ビデオがスタートしてほんの数十秒だろうか。
 画面下側、つまり風呂場の出入り口側から、細長い、まるで孫の手のような、 あるいはミイラの手のような、硬そうで乾燥しきってシワシワになった茶色い腕が延びてきた。 まるでオモチャのようにも見える。
 硬くてまっすぐな細い腕が洗面器をまさぐり、 小さな指を開いて、なんとかして掴もうとしている。
 そして不器用に洗面器をカランの下までもっていくと、また不器用に蛇口を開いて水を出し、 洗面器にゆっくり水を貯めだしたのだ……。
 その様子を唖然として見ながら、自分は怖くて震えが止まらなくなっていた。
 この何者かわからない謎の腕が伸びてきた時間、自分はまだこの部屋にいたはずだ。
 風呂場から出てほんの数十秒後の事である。 まだ居間にいて出勤の準備をしている最中のはずだ。
 その裏で、こんな奇怪なことが同時進行していたのだ。
 まばたきするのも忘れて呆然とビデオを見ていると、突然ビデオが消え、真っ暗な画面になった。
 その瞬間、ハッと我に返ってビデオカメラを見てみると、電源が落ちて、水が滴っていた。
 防水のはずのカメラの内側から水が滴っているのだ。
 思わず部屋の真ん中に立ち尽くし、手を合わせて念仏のマネごとをしてみる。
 怖すぎる。きっと今もこの部屋の中にヤツは居るのだ。 もうどうしていいかわからない。
 その日はとりあえず、友達の家に避難させてもらうことにした。

……それからすぐに引っ越しの準備をして、今は別のアパートに暮らしている。
 いったい、あの細い腕はなんだったんだろう。
 そのマンションは今もまだあるし、あの部屋にはきっと誰かが住んでいるに違いない。
 気付くか、気付かないかだけの差でしかないのかもしれない。
 みなさんも、洗面器の水にはお気を付けください。

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1件のコメント

  • kama より:

    運営の方、ありがとうございました。
    誤字脱字をアップしてから気が付いて、
    やむに已まれず再投稿させていただきました。
    以後気を付けます。

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