靴を履こうとすると、爪先がチクチクと傷んで履けない。
「やだ、どうしよう。これじゃあ、会社に行けないじゃん」と思ったところで目が覚めた。
独り暮らしの狭いアパートにやって来て半年の猫が、私の足先にじゃれついていた。
夢の中で感じた爪先のチクチクした痛みの原因は、この白黒模様の猫だった。
枕元のスマホを手に取り、表示画面を見て、私は慌てて飛び起きた。何時も起きる時間を40分もオーバーしている。
「仕舞った! 二度寝した!」
狭い室内を体のあちらこちらぶつけながら走り回り、猫に餌と水を用意し、メイクを5分で仕上げ、髪を濡らして寝癖を直す。
パジャマを脱ぎ捨て、洋服を選ぶ時間は無いと瞬時に判断して、無造作に椅子に掛けてあった前日と同じ通勤着に着替え、鞄を引っ掴むと玄関へ向かった。
パンプスを履こうと靴に足を入れる時、少し躊躇したが、爪先に痛みを感じることも無く、すんなりと履くことが出来た。
玄関ドアを開ける前に、私は一度振り返り、居間兼寝室の戸がしっかりと閉じられている事を確認する。
玄関を開けた途端、猫が飛び出す危険を避ける為だ。
カチャリと鍵を空け、鉄のドアを外側へと開けると、ドアは何の抵抗も無く静かに開き、少しざわついた朝の空気が足元から室内に流れ込んできた。
一歩外へ足を踏み出そうとしたその時、外通路に変なモノが落ちている事に気付いた。
「え?」
私は思わず身をかがめて、それを凝視した。
なんとそこには、紳士物と思われる黒い靴下が一組置かれていたのだった。
スーツを着たビジネスマンが履くようなタイプのその黒い靴下は、こちら側に爪先を向けて、綺麗に並べた様に置かれており、後で思えば、人為的に置かれたようにしか見えなかった。
しかしその時は、急いでいた事もあり、どこかの家の洗濯物が、風で飛ばされて来たのだろうくらいにしか思わなかった。
私は、その靴下を跨ぐようにしながら外に出ると、踏まないように気を付けながらドアに鍵を掛けた。
一瞬、靴下を拾って、皆の目に付くようにアパートの郵便受けの辺りにでも置いておこうかとも考えたが、誰の物とも分からない男性の靴下を素手で触る事に抵抗を感じて思い留まった。
私は靴下をそのままにして、駅へと足速に向かった。
駅のホームに着くと、丁度電車が滑り込んできたところだった。
私はラッキーとばかりに、一番近いドアから電車に乗った。それでも何時も乗る電車より一本遅い。
電車のドアにへばりつくようにしながら、一応時間を確認しようと、鞄の中に手を入れてスマホを取り出そうとした。
だが、何時もスマホを入れてある鞄のポケットには、何も入っていない。部屋に忘れたのだ。
「うわっ……、最悪」
恐らくはベッドの上、枕元に置いたままだ。 車内はほぼ満員。
ガタゴトと重そうな音を立てて、電車は加速していく。
今更アパートに引き返すわけにもいかない。
一日スマホ無しで過ごさなければならないのかと思うと、気分が落ちるが仕方がない。
忘れた自分が悪いのだ。今日はツイてないなと思った。
幸か不幸か、その日は仕事が忙しかった。
スマホを忘れなかったとしても、見る暇もなかっただろう。
それでもなんとか仕事を終え、午後7時過ぎには帰宅する事が出来た。
部屋へ入ると、猫がナーナーと鳴いてすり寄ってきた。
「ただいま」
猫を抱き上げようとした時、ベッドの上にあった筈のスマホが床に落ちていた。
悪戯盛りの猫が、スマホに戯れついて落としたのだろう。
「もう、悪戯したら駄目でしょー」
私は猫を抱き上げる代わり頭をなでて、スマホを拾い上げた。
画面を開くと、着信が十数件届いていた。確認すると、故郷に住む姉だった。
30分から1時間おきに電話を掛けてきている。
もしかしたら着信時に起きるバイブレーションによる振動で、スマホが少しずつ移動し、ベッドから落下したのかもしれない。猫にとんだ濡れ衣を着せてしまったかも。
それよりも、姉からこんなに頻繁に着信が入るなんて珍しい。何か有ったのか。
胸騒ぎを覚えながら、私は着信履歴からリコールで姉に電話を掛けた。
「お父さんが亡くなった」
姉からの衝撃的な報せだった。
父は70代と高齢。認知症になり施設で生活をしていた。半年位前から徐々に体力が落ち、寝たきりとなっていた。
「今のうちに、一回帰って来なさい」
母から連絡を受け、故郷に戻り父と対面したのがニ週間前。
もう意識はなく、父の命を繋いでいるのは、透明な液体が入っている点滴だけだった。
痩せた父に掛けられていた布団は、大腿部部分からペチャンコになっていて、更に体が小さく見える。
父は糖尿病が悪化して、数年前に両足を切断していたのだ。
切断手術が行われる前夜、私は母と姉と一緒に夕食を取りながら堪え切れなくなり、突然泣き出し、釣られて母も姉も泣き出して、三人で泣きながらご飯を食べた事を思い出した。
手術後、認知症もある父は、無くなった足で立ち上がろうとして危ないと、ベッドの周りを柵で囲われて過ごしていた時期もあった。
姉との電話を切ってから、私はハッとして玄関へ向かった。
玄関ドアを開けると、猫が後ろから着いてきて、今にも外へ出ようとしている事に気付き、寸前で足で止め抱き上げた。
日中の忙しさのせいか、すっかり忘却していて、帰宅時には気にも留めていなかった。
朝、出掛ける前に、玄関前に誰かが並べた様に綺麗に置かれていた紳士用の靴下は、無くなっている。
風などで飛ばされたかとも思い、左右を確認したが、それらしい物は見当たらなかった。
父の死亡時刻は午前8時。
私が出勤の為に家を出た少し後だから、その時はまだ生きていた事になる。
こんな事を考えるのは変かもしれないし、単なるこじつけかもしれないのだが、もしかしたら父は、 『足が元に戻ったよ』と、私に報せる為に、ここまで来たのかもしれないと思った、なんとも不思議な出来事だ。
おわり